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210516読んだ本

読書の厄介なところは、期待せずに読み始めた本が意外にも面白いことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
誰も借りてなかったから借りただけなので、自分の選書にセンスがあったわけではないのが残念(^_^;)

【読んだ本】

林千寿『家老の忠義 大名細川家存続の秘訣』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2021)

読了(^o^)丿 細川藤孝(幽斎)・忠興(三斎)・忠利・光尚・綱利(幼名は六丸)の5代を家老として
支えた松井康之・興長父子を取り上げ、予想に反してメチャ面白かったよヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪

    細川家を支えた家老の忠義──プロローグ

      絶対ではなかった主君への忠義/松井康之と興長の価値観/引用史料について/

    家老への道のり

     足利から細川へ

      最初の主君は足利義輝/運命を変えた永禄の変/足利義昭に仕える/
      細川藤孝との出会い/細川藤孝を主君に選ぶ/

     山崎勝龍寺城時代の活躍

      西岡支配の奉行をつとめる/物集女宗入の暗殺/過酷な戦陣を共にする/

     城持ち家老松井家の成立

      丹後国替と家老就任/丹後水軍を率いて大活躍/本能寺の変/
      康之の加増を支持する秀吉/松井軍団の成立/

    政権移行期の松井康之

     秀吉・家康との関係

      秀吉直参の扱い/大名取り立ての誘い/家康との交流/関白秀次事件/
      家康に借金を申し込む/

     丹後討伐の回避

      家康暗殺の謀議/疑われた忠義/家康との和睦交渉/発動された会津討伐/
      会津従軍を許された忠興/

     天下争乱に際しての行動

      木付残留の決断/守れなかった丹後/忠興を敵視する三成/
      攻撃の対象となった木付城/木付城を守り抜く/勝因は如水・清正との信頼関係/
      戦後の領地配分/

    御家第一主義の継承

     康之の遺言

      加藤家の御家騒動/正次の謀叛を訴えた正方/細川興元の出奔/細川興秋の出奔/
      康之最後の仕事/報われた忠義/

     細川忠利の仁政を支えた興長

      興長の家督相続/興長の考える家老の役割/改易の脅威/細川忠利という主君/
      肥後国替と忠利の藩政/百姓の救済を進言する興長/

     加藤家と細川家の命運を分けたもの

      対照的な命運をたどった加藤家と細川家/否定されるべき陰謀説/
      幕府が示した改易の理由/忠広の酒乱狂気/領国支配の問題/
      家老加藤正方の問題/統治能力の差/

     島原・天草一揆

      大国拝領の責任/一揆勃発時における興長の立場/
      派兵すべきか、幕命を待つべきか/他藩家老との連携/同一行動によるリスク回避/
      時機を逸した天草出兵/家老を叱責する忠利/指揮官は指揮に専念せよ/
      指揮する興長/戦いの評価/

    八代城主としての松井興長

     八代隠居領問題

      存続を許された八代城/八代の独立を志向する忠興/八代衆を警戒する光尚/
      八代隠居領の解体と興長の八代入城/細川家を去る長岡河内守/

     八代城主権力の制御

      制御されるべき八代城主の権力/家老衆・奉行衆による制御/
      悪事をはたらく八代御城附衆への対応/処罰に公正性をもたせる/

     公儀奉公としての八代城守衛

      八代は薩摩の押さえ/軍役の遵守を求める/公儀奉公と御家の存続/

    家老による藩主守り立て

     幼少相続と家老

      幼君守り立てを拒否する家老/光尚の早世と分知の危機/松井寄之の派遣/
      家老による公儀奉公の保証/六丸の家督相続が認められる/

     諫言する興長

      遊興にふける六丸/六丸への諫言/六丸の母清高院への諫言/綱利への諫言/
      綱利の返事/

     興長の遺言

      発見された興長の遺言/家老への遺言/息子寄之への遺言/松井家番頭への遺言/
      綱利への遺言/亡くなる前日の遺書/しゃべり出しそうな肖像画/

    細川家を永続ならしめた康之と興長の生き方──エピローグ

    あとがき

    参考文献

細川藤孝の家老である松井康之の名前は知ってたけど(本能寺の変直後に羽柴秀吉が松井康之宛ての
書状で細川家を味方につけようと吹いてるのがよく紹介されてる等)、斯くも有能な武将・家臣で、
しかも細川家は改易や転封、分知・減知等の危機が何回かあり、康之・興長父子が家老として支えて
乗り切ってたとは全く知らなかった( ̄◇ ̄;) 自己の利益を優先しがちな時代に、独立して大名にも
なれたにもかかわらず辞退して、細川家に仕え続けたというのもマジで凄い( ̄◇ ̄;) 忠利と光尚は
名君とまでいかなくても優れた藩主だったけど、忠興がこんなにも困ったチャン、てゆーか、バカ殿
だったとはヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 例えば、本書89頁から引く((;゚Д゚)ヒィィィ!

    ・・・/康之が仕えた細川忠興という主君は、戦国一短気な男と称されるほど
    気性の激しい人物であった。細川家には「歌仙兼定」の異名をもつ刀が伝承
    している。忠興が意に沿わない家臣六人(あるいは三十六人)をこの刀で成敗した
    との言い伝えから、六歌仙(三十六歌仙)にちなんでその名がつけられたという。
    おそらく作り話しであるが、そのような由来が伝わるほど忠興の気性は激しかった
    のである。/このような気性のせいで、忠興は家臣の反感を買うことが多かった。
    沢村大学は丹後時代から仕える忠興の側近であったが、忠興の仕打ちにたえかね、
    一時、細川家を離れている。大学の証言によると、領地を召し上げられたり、
    年老いた母親を人質にとられたり、横領の濡れ衣を着せられたりしたという。
    のちに大学は帰参を許されたが、終生忠興を許すことはなく、忠興への奉公を
    拒み続けた。/・・・
    
本書によると、(目次にある八代隠居領問題を始め)忠興の所為で細川家は何度か危機に陥るけど、
「しかし、康之は辛抱強く忠興に仕え、忠興もまた康之に対しては、厚情をもって接した。」(本書
90頁)とし、康之の病気を見舞う忠興の書状の数々について次のように指摘(本書90~91頁)(゚o゚;)

    ・・・/見舞状には決まり文句を並べただけの、形式的なものが少なくないが、
    忠興が康之に送った見舞状は違う。薬の服用法など、康之を回復させるための
    アドバイスが事細かに記されており、その文面からは、何としてでも康之を
    回復させようとする忠興の意気込みが伝わってくる。また、その多くは自筆で
    書かれたもので、文字数が一千字を超えるものも少なくない。忠興は康之のため
    ならば労を惜しまなかったのである。/・・・

それだけ細川家において松井康之が不可欠の存在となっていたからだろうけど、他の家臣に対しても
同じような「厚情をもって接し」てればねぇ(^_^;) 今谷明『武家と天皇 ─王権をめぐる相克─』
(岩波新書,1993)において「公武関係の斡旋に活躍する」細川三斎と同一人物とは思えない(^_^;)

島原・天草一揆(=島原の乱)も細川家にとって危機で、幕府の許可を得ずに鎮圧に出兵したら法令
違反を問われるし、法令を遵守して派兵しなくても一揆が拡大した責任を問われる可能性が( ̄◇ ̄;)
しかも、島原も有明海を挟んで肥後熊本藩の近隣だが、肥前唐津藩主寺沢堅高の飛び地の天草は更に
自領に近いので自領への波及・拡散が危惧され、天草には一刻も早く出兵したい状況ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
しかし、藩主の細川忠利は江戸に参勤中だし、幕府の指示を仰ごうにも江戸と熊本は往復に4週間ほど
かかるという中で、筆頭家老の松井興長は、配流された松平忠直を監視するために豊後(熊本から2日
で書状を届けられる)に在番してる幕臣=豊後目付の牧野成純と林勝正に出兵の許可を求めるという
機転(⌒~⌒) しかも、佐賀藩の家老からの問い合わせに対し、松井興長ら熊本藩の三家老は豊後目付
に書状を送ったこと等の自藩の方針を隠すことなく伝えて連携しようとしているのも流石だv( ̄∇ ̄)
ところが、豊後目付は江戸からの指示を待てと天草への出兵すら許可せず∑( ̄ロ ̄|||)ニャンと!?
結果として、一揆は拡大してしまうのだが、本書124&126頁の記述が非常に興味深かった(⌒~⌒)

    ・・・/このような状況の中、熊本藩の天草出兵を許可する十一月九日付の書状
    (『原史料』二五八号)が豊後目付のもとに届く。この書状は、京都所司代の
    板倉重宗、大坂城代の阿部正次ら上方の幕府重臣が熊本藩三家老宛に発したもので、
    「島原への出兵は幕府(江戸)の指示を待たねばならないが、天草については
    (江戸からの)命令を待っていては手遅れになるので、速やかに討伐の兵を出す
    ように」と記されていた。/興長がこの書状を受け取ったのは十一月十六日のこと
    である。肥後高瀬で豊後目付と面談した際、直々に書状を手渡されたという。
    板倉・阿部らの指示は江戸の許可を得たものではなかったが、彼らは西国大名の
    監督をつかさどる幕府の重臣であり、この出兵命令は幕府のお墨付きを得たに等しい。
    書状を読んだ興長は、その場で天草出兵を願い出た。これに対して豊後目付は、
    「まず天草の様子を聞き届け、隣国の衆を召し寄せ相談してからのことである」
    (『綿考輯録』巻四十)と述べ、待機を命じたという。・・・

板倉重宗や阿部正次はやはり凄いなぁ(〃'∇'〃) 豊後目付は頭の固い窓口業務の公務員みたい(-"-)

んな感じで、メチャ面白い本書だが、気になる点もある(@_@;) 本書で何度か用いられている史料の
『松井家先祖由来附』(見落としが無ければ、本書173頁によると少なくとも「八巻」は存在する)、
本書52~53頁に「『松井家先祖由来附』は江戸時代に編纂されたものであり、三成の讒言については
作為の可能性が考えられる。」とあるだけで、どんな史料なのか説明が無い(@_@;) よく先祖の功績
を誇るために子孫が話を作ったり盛ったりすることあるからね(^_^;) 『松井家先祖由来附』(一巻)
に依拠して、秀吉の鳥取城攻めを支援するため松井康之が「丹後水軍を率いて大活躍」した話が紹介
されてるけど(本書29~30頁)、『太平記』の楠木正成の赤坂城攻防戦の類いのように感じた(^_^;)

最後に、本書の主題であり結論を本書209頁から一応メモっておこうかな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
  
    ・・・/このように、江戸時代後期の細川家臣たちは、御家の繁栄のため、藩主を
    律し続けていた。彼らにとって優先すべきは、藩主個人の利益ではなく、領民をも
    含み込んだ御家の利益だった。冒頭で筆者は、大名家が永続性を確保するには、
    忠義の対象を主君個人から御家という共同体に転換させる必要があったと述べたが、
    細川家ではそれか実現していたのである。その礎を築いたのは、言うまでもなく、
    康之と興長である。御家の利益を第一義とした彼らの生き方は、江戸時代を通して
    細川家を永続ならしめたのである。/
タグ:列伝 歴史
コメント(6) 
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コメント 6

tai-yama

「まず天草の様子を聞き届け・・・・」昨今の、まん延防止法の
効果を見定めて・・・と言っているのと同じ状況だったり(笑)。
by tai-yama (2021-05-16 23:20) 

ナベちはる

適当に取った本が面白かったこと、割とありますよね。
アレコレ考えずに、パッと取るのが良いのかもしれませんね☆彡
by ナベちはる (2021-05-17 00:27) 

middrinn

いつの時代もしょーもない役人が、
tai-yama様、いますねぇ(^_^;)
by middrinn (2021-05-17 06:02) 

middrinn

たしかに、思慮より直観でのチョイスが、
ナベちはる様、役に立つことも(^_^;)
by middrinn (2021-05-17 06:03) 

ニッキー

思わぬ出会いがあると、得をした気分になります^^
何気に時間つぶしに手に取った本が予想外に面白くて
買っちゃうこともあります( ^ω^ )
かみさんはそういう場合、その作家さんの本を
大人買いしたがるので危険がいっぱいですw
by ニッキー (2021-05-17 20:54) 

middrinn

一目惚れで即プロポーズしそう・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2021-05-17 21:13) 

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