SSブログ

210415読んだ本

読書の厄介なところは、駄作を傑作の如く得得と解説されることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
少額とはいえギフト券を次々入手してるのに今月は古本を「欲しがりません」なのはツラい(-ω-、)

【読んだ本】

坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書,2021)

教わることがメチャ多い本書だけど、27~28頁と36~37頁の両記述には顔を顰めてしまった(´ヘ`;)

    ・・・/文治五年(一一八九)七月十九日に鎌倉を進発した頼朝軍は、七月二十九日、
    白河関に着き、関明神に奉幣した。ここで頼朝は梶原景季を召し、今は初秋である、
    能因法師の故事を思い出さないかと水を向けた。『新古今和歌集』入集歌数第二位の
    慈円から歌人として高く評価された頼朝らしく、三十六歌仙の一人である能因の
    「都ほば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」(『後拾遺和歌集』九、
    羇旅)を想起したのである。武勇の士でありながら和歌の教養も身につけていた
    景季は馬を止めて、即座に一首の和歌を詠んだ。

      秋風ニ 草木ノ露ヲ 払[はらわ]セテ 君カ越[こゆ]レハ 関守モ無シ

    景季は「露ヲ払セ」に「先払い」を掛け、「関守モ無シ」には「君」頼朝の威勢に
    敵勢も圧倒されて無きがごとしという意味を込め、秋風の吹く白河の関を堂々と越えて
    勝利を手にしようとする主君を寿[ことほ]いだのである。/白河関は陸奥国の入口
    であり、大石直正氏が指摘するように、頼朝軍にとっては敵地に侵入する重要な境界
    にあたる。頼朝は和歌の持つ呪術性によって、この境界を無事に通過することを願った
    のであろう。古代・中世の和歌にはこうした力も期待されていたのである。と同時に
    『吾妻鏡』は、和歌を通じた当意即妙なやり取りを挿入することによって、家臣と
    緊密に結びついた主君頼朝の器を象徴的に示そうとしたのだと思われる。/・・・


    ・・・/二十一日は「甚雨暴風」であったが、頼朝は泰衡を追って岩井郡(磐井郡、
    現、岩手県南部)の平泉に向かった。途中、栗原・三迫の要害でも泰衡の兵を蹴散らし、
    栗原郡から岩井郡に通じる松山道を経て「津久毛橋」に到った。ここで梶原景高が
    一首の和歌を詠んだ。

      陸奥の 勢ハ御方[みかた]ニ 津久毛橋 渡して懸[かけ]ン 泰衡か頸

    「勢ハ御方ニ津久毛橋」を勢が「味方につく」に、また「橋(を)渡して」つまり
    「橋を渡って」を「頸を渡して」に掛け、「橋」の縁語である「懸」を用いて
    「頸を懸ける」と表現した歌である。頼朝は「祝言」の歌であると満足し、景高を
    褒めた。津久毛橋は平泉の入口に位置する境界の橋である。白河関を越えて陸奥国に
    入った時と同様、頼朝は敵の本拠に侵攻するにあたって和歌の持つ呪術的な力を期待
    したのである。/また、白河関の景季、津久毛橋の景高は頼朝の側近梶原景時の長男、
    次男である。景時も含め、梶原氏の人々は文化的素養があったらしく、各種の文献に
    和歌や連歌の逸話がみえる。ただ、その力を高く評価していた主君頼朝が急死した
    一年後、梶原氏は滅亡する。『吾妻鏡』の和歌の逸話は、頼朝あっての梶原氏である
    ことを象徴的に示したものとも考えられよう。/・・・

ともに秀歌とは言い難い出来(-ω-、) 芭蕉だって白河関で取り上げたのは平兼盛、西行、能因法師、
源頼政の歌で、梶原景季の歌には見向きもしてないし、この2首では梶原兄弟や源頼朝の歌人としての
才能が疑われてしまうだけでなく、引き合いに出された慈円の顔に泥を塗ることになるぞヾ(`◇´)ノ
まさか、まさかだけど、坂井孝一は、この2首を秀歌と思ってるのかな∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?

そもそも、こーゆー場面では秀歌かどうかがポイントになるのだが、その前に、用語の問題として、
「和歌の持つ呪術性」「和歌の持つ呪術的な力」とはチープだけど、〈前著(『承久の乱』)では、
承久の乱における鎌倉方の結束を「チーム鎌倉」と表現した。〉と本書210頁にもあったし、こーゆー
俗耳に入り易い「表現」がお好きなのか、あるいは、そーゆーレヴェルの読者を想定したか(´・_・`)

とりあえず、小町谷照彦(訳注)『古今和歌集』(ちくま学芸文庫,2010)から仮名序の有名な件を、
その訳も含めて、引きましょうかC= (-。- ) フゥー

    ・・・力をも入れずして天地[あめつち]を動かし、目に見えぬ鬼神[おにかみ]をも
    あはれと思はせ、男女[をとこをむな]の仲をもやはらげ、たけき武士[もののふ]の
    心をも慰むるは歌なり。/・・・

     ・・・力をも入れないで天や地を動かし、目に見えない魂や神を感じ入らせ、
     男女の仲をもうち解けさせ、猛々しい武士の心をもなごやかにさせるのが
     歌なのである。/・・・

和歌の「効用」「効果論」の件で、奥州合戦の上記の両場面もモチこの件を踏まえてるv( ̄∇ ̄)ニヤッ

和田合戦で「・・・和歌の力を信じる実朝が戦勝祈願の願文に自詠を二首書き添えたというのもあり
そうな話である。」(本書193頁)と記すなど、歴史学者にしては珍しく、和歌についての記述が結構
あるからメチャ興味深く読んでるけど、この坂井孝一、和歌に詳しいんだか詳しくないんだか、よく
判らない(@_@;) この『古今和歌集』仮名序の和歌の効用・効果論についても、当然御存知のような
感じもするんだけど、他方で、例えば、本書の157~158頁には次のような解説が(@_@;)

    ・・・/現代人は、和歌は文化であり、政治とは無関係と考えがちである。しかし、
    第二章第二節で蹴鞠が政治のツールでもあったと述べたように、古代・中世の人々に
    とって文化と政治は不可分であった。後鳥羽の子の順徳天皇が著した故実書『禁秘抄』は、
    天皇が修めるべき芸能・教養として第一に漢学(いわば現代の政治学)、第二に音楽、
    第三に和歌を挙げている。現代人が遊戯・文化に分類する音楽と和歌は、楽器を奏する音と
    和歌を詠み上げる声によって神仏と交感し、天下泰平・国土安穏を実現する力を持つとされ、
    為政者である貴族たちはその修得に励んだ。マルチな才能に秀でた後鳥羽はそのすべてを
    極めたが、中でも生涯を懸けて打ち込んだのが和歌であった。実朝が和歌を詠み始めたのは、
    朝廷の治天の君、天皇、貴族たちと渡り合わなくてはならない幕府のトップとして
    当然のことだったのである。/・・・

となると和歌の出来より講師(歌会や歌合で和歌を読み上げる役)を誰が務めるかが重要だな(^_^;)
冗談はさておき、本書は秀歌であることが肝心との指摘が無くて和歌であれば駄作でも「力」がある
と昔の人々は信じていたかのように読めるけど、まさか坂井孝一自身もそう思ってるのかな(@_@;)
また、細かいことを言えば、「後鳥羽院は・・・生涯を懸けて打ち込んだのが和歌」としてるけど、
久保田淳(訳注)『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫,2007→2016第7版)巻末「解説」で「この頃、
後鳥羽院の詠歌に対する意欲はやや衰えていたようにも思われるが」とされる時期もあり(久保田淳
『新古今和歌集全注釈 六』[角川学芸出版,2012]の巻末「解説」にも同旨)、樋口芳麻呂『王朝の
歌人10 後鳥羽院』(集英社,1985)にも「第五章 詠歌停滞の時代」が設けられ、例えば、「『新古今
和歌集』の撰定という大きな目標を達成したのちの院は、和歌への情熱は衰弱し、節会の習礼や蹴鞠
・社寺参詣・祈禱呪法・連歌・詩文・囲碁・弓・双六・相撲・猿楽など、その興味は多様に分散して
いる。」といった記述等があるわけで、和歌に関しては本書は粗雑だし上っ面な感じがする(@_@;)

本題に戻ると、秀歌であることこそが要件であり、掛詞や縁語等の技巧を用いた三十一文字であれば
どんな出来でも、『古今和歌集』仮名序が言う和歌の効用・効果があるわけではない( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
久曾神昇(全訳注)『古今和歌集(一)』(講談社学術文庫,1979)は解り易い例で説明v( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・後世に及ぼした影響も大きい。物理的な力を用いないで、いろいろ効果の
    あらわれる例をあげている。・・・後になると、いわゆる歌徳説話も生まれるが、
    狂歌では「歌よみは下手にこそよけれ天地の動きだしてはたまるものかは」とも
    評された。/

秀歌だから天地も感応して動くわけで、もし下手な歌でも効果があったら、この狂歌にもある通り、
天地の動きが止まらない大変な事態になっちゃうぞヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 本書の「和歌の持つ呪術的な力」
とかいう論理だと、例えば、不遇を嘆く歌を詠みさえすれば必ず出世することにエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
そーゆー歌を詠んで出世したのは秀歌だからC= (-。- ) フゥー 歌徳説話が創られるのも秀歌ゆえ(^^)v

景季、頼朝、慈円の名誉のため一言すると、上宇都ゆりほ『コレクション日本歌人選047 源平の武将
歌人』(笠間書院,2012)が『仮名本曾我物語』(『曾我物語』も坂井孝一の研究対象の由)の「景季
の歌才を伝える歌」を取り上げて「雷神も感動したのか、風雨も止んだ」と紹介する_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

・今谷明は本書において『袋草紙』を読んでいる風に「見せかけて」いるけど、おそらくは孫引きで、
 てゆーか、『古今著聞集』『十訓抄』も見てないヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 能因法師と逆・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-01

・白河の関でトンチンカンな解釈をする杉本苑子『おくのほそ道 人物紀行』(文春新書,2005)(-"-)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-11-17
タグ:和歌 歴史 説話
コメント(8) 
共通テーマ:

コメント 8

ぽ村

ヲレは映画好きに映画解説されるのが本当に嫌だなぁ…
何もかも否定しかされないんで;

源氏の三将軍ですかー
頼朝以外の実績が…いや、頼朝も個人的にはちょっと…
by ぽ村 (2021-04-15 22:36) 

tai-yama

戦時中のスローガンと思えば秀歌かも(笑)。
by tai-yama (2021-04-15 23:32) 

ナベちはる

駄作を傑作と言われても、頭の中でそのように切り替えが出来ないです…(・_・;)
by ナベちはる (2021-04-16 00:49) 

middrinn

蓮實重彦のエピゴーネンのような映画評論が多くて、
ぽムたん、何を言ってるのかも小生は解りません(..)
頼朝の時のままで、というのが多いですしね(^_^;)
by middrinn (2021-04-16 04:51) 

middrinn

「欲しがりません、勝つまでは」も、
tai-yama様、七五ですしね(^_^;)
by middrinn (2021-04-16 04:53) 

middrinn

自分の直観や印象といったものを裏返しに、
ナベちはる様、されちゃいますしね(^_^;)
by middrinn (2021-04-16 04:54) 

そら

しかし良くパッと歌を思いつくものですね!
私なら半日ぐらいかかりそうだけど(^^;
by そら (2021-04-16 06:40) 

middrinn

その点は小生も感心します(^^) 才能に加え、
歌会や連歌で鍛えられたんでしょうね(^^)
by middrinn (2021-04-16 06:56) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。