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210427読んだ本

読書の厄介なところは、麒麟さんよりも猫さんや鳥さんが来ることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
ついカーテン越しに眺めてしまうのだが、当方に全く気付いてない様子なのが不思議ではある(@_@;)

【読んだ本】

福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』(中公新書,2020)

読了(^o^)丿 本能寺の変を起こした理由とかを知りたい人は肩透かしを食いそうな本書(^_^;) 本書の
「はじめに」には次のようにある(本書ⅶ頁)( ̄◇ ̄;)

    ・・・/本書では、こうした織田権力を支えていた明智光秀を通史的に検討し、
    その歴史的な位置について考えたい。織田権力の政策が単に信長の独創だけでなく、
    現場の武将たちが献策し、実践に移された側面が強かったと思われる。対照的に
    捉えられがちな光秀と秀吉であるが、ある意味両者は似た存在ではなかったか。
    織田権力という歴史的な時期区分であったことは事実であるが、信長の目指した
    ものと、光秀、あるいは秀吉が目指したものは異なったのではないだろうか。
    本書では、そうした側面にも十分に意を払い、光秀の後半生をたどってみたい。/

織田信長は革新的・先進的なイメージだけど、近年は実際には異なるとされているらしく、例えば、
「このように見ていくと、信長が、結果として旧態依然とした直臣(部将)への軍事動員方式をとって
いたのに対して、前線の部将たちは石高制を基礎とした近世的な動員を実践しつつあった(稲葉継陽
「明智光秀論」)。天正九年頃の光秀の動向はその典型で、織田権力の中では先進的な方策を進めつつ
あった。」(本書252頁)等といった風に、実は明智光秀が〈織田権力の政策の屋台骨を背負いつつ、
「司令塔」と言っていいような存在になっていたのである。〉(本書253頁)とする( ̄◇ ̄;) 加えて
「信長の後継者となった秀吉は、土地を丈量する太閤検地を実施し、軍事制度を整備していく。これ
によって、彼は天下統一、さらには朝鮮出兵を可能にした。しかし、この制度は織田権力の最末期に
光秀が実施していたものであった。まさしく、秀吉のもっとも重要な政策は光秀の方向性を継承した
ものと言えるだろう。」(本書263頁)等として、光秀と秀吉の共通性・連続性を指摘する( ̄◇ ̄;)

    はじめに

    第一章 光秀の登場

     美濃との関わり/越前との関わり/光秀と近江/

    第二章 上洛以後の活躍

     義昭御座所の防衛、築城/織田系奉行時代と国衆/権門との関わり/
     義昭と信長との狭間で/元亀元年の争乱/

    第三章 坂本城主と京都代官

     比叡山の焼き討ち/坂本築城と京都の政務/義昭との戦い/信長「御屋敷」築造の勧め/
     京都御代官と多聞城在番/坂本城の構造/志賀郡支配の様相/

    第四章 丹波攻略の始まり

     戦国期丹波の政治状況/第一次丹波攻略とその失敗/病む光秀/亀山城の構築/
     近畿各地の戦闘と第二次丹波攻略/

    第五章 八上城攻防戦と畿内制圧

     八上城攻めの開始/反旗を翻す荒木村重/八上城攻めの準備と伊丹城をめぐる情勢/
     小畠永明の戦死と八上落城/村落蜂起の誘発と丹波攻略の完了/伊丹落城/
     佐久間信盛の追放/

    第六章 分国支配の様相

     戦後処理と天正七年検地/坂本城普請と百姓の徴発/大和の一国指出と馬揃え/
     軍法の制定/城わりと国衆/戦後の築城ラッシュ/

    第七章 織田勢の西国攻めと光秀

     丹後国と細川藤孝・明智光秀/丹後における築城と「賊船」/
     西国攻めの方向性と鳥取城攻囲/対長宗我部氏政策の転換/斎藤利三の立場/

    第八章 本能寺の変へ

     畿内・近国と信長の「西国御陣」/本能寺の変前夜/本能寺襲撃/
     本能寺の変をめぐる議論/

    第九章 山崎合戦と光秀の死

     近江の制圧と蒲生氏の抵抗/織田信孝・丹羽長秀の動向/柴田勝家の動向/
     羽柴秀吉の東上/光秀の帰京と外交工作/山崎合戦前夜/武装都市、大山崎/
     山崎合戦の展開/光秀の本陣跡はどこか/明智一族の最期/

    終章 明智光秀の実像

     山崎合戦直後の国衆たちの動向/司令塔としての自覚/信長との距離/
     築城と城下町づくり/光秀から秀吉へ/

    あとがき

    参考文献

    明智光秀略年譜

一番興味深かったのは、足利義昭が京都を退去した後、光秀が信長に対し京都吉田山に「御屋敷」を
築くよう勧めたという話で(本書48~49頁、182~183頁、263頁)、本書49~50頁から引く( ̄◇ ̄;)

    ・・・結果として、光秀が勧めた吉田山築城案は却下され、信長は以後も
    明確な京都における居所を定めず、妙覚寺や本能寺などの寺院を宿所の対象
    とした。このとき光秀の言う通り吉田山に「御屋敷」を築いていたならば、
    信長の隙を狙った本能寺の変は起こらなかったかもしれない。/・・・

吉田山に「御屋敷」の築城を進言したことは、「これは、京都が権力者にとって決して安全な場では
ないことを認識していたからにほかならない。光秀は前々から信長の弱点を知っていたのである。」
(本書191頁)とし(本書256頁にも同旨)、この点も「・・・秀吉は公儀権力の拠点として、京都に
聚楽、御土居、二つの伏見城と矢継ぎ早に築造を進めていった。光秀に京都における築城実績はない
ものの、その必要性は強く認識していた。その意味でも、光秀の姿勢を結果として秀吉が継承して
いったとも言えるだろう。」(本書263頁)と、光秀と秀吉の共通性・連続性としている( ̄◇ ̄;)

本能寺の変に関する記述で興味深かったのは「あとがき」の次の件(本書265~266頁)かな(@_@;)

    ・・・/実際に彼の書状を読んでいくと、その気遣いや、もてなしの様子がうかがわれ、
    他者を引き付ける魅力があったようである。特に、天正三年(一五七五)から職務上
    付き合うようになった丹波国衆の小畠永明とのやりとりでは、互いに傷や病を心配し合う
    信頼関係を築いている。他者に対して寄り添おうとする光秀の姿勢は、国衆だけが対象
    ではない。寺社や都市民などに対しても同じように視線を下ろそうとする柔軟性が、
    彼にはあった。/もっとも、戦線が広がるなか、そうした人間的な魅力だけで社会を
    まとめあげていくには、限界も感じていたのであろう。そのため、晩年の彼は法的な整備
    に全力を傾け、その秩序立てを強く求めたようである。そうした支配の進展のなかで、
    彼は自らの自信を深め、文書でも尊大で高慢な書きぶりが見えてくる。その慢心が、
    本能寺の変を起こす要因になったかもしれない。/・・・

なお、本能寺の変の直後に細川藤孝・忠興に届けられた6月9日付の光秀の有名な「覚[おぼえ]」、
その第二条に藤孝には摂津を与えるし隣国の若狭が良ければ優先的に進上する云々とあることから、
〈この文面では、光秀自らの差配でこうした部将たちの分国付与を提示しており、彼の上位の権力の
存在は見られない。換言すれば、光秀自らが信長に代わる事実上の最高権力者であると自任していた
ことになる。〉とし、また第三条で〈光秀が本能寺の変を「不慮之儀」と称していることから、彼に
とっても計画的なものではなく、かなり唐突な判断だったものと思われる。〉としているのを読むと
(本書213頁)、福島克彦は藤田達生と親しいみたいだけど、黒幕説には否定的な感じだね(@_@;)

歴史上の謎を読み解く知的愉しさに満ちてた足利健亮『地図から読む歴史』(講談社学術文庫,2012)
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-06-10 )で論じられていた光秀が亀山城
から本能寺を目指したルートについて、本書186頁は次のように批判を加えていた(⌒~⌒)

    ・・・/六月二日未明、光秀の軍勢は、山陰道を東上した。軍勢は散開して一部
    西山の稜線を通る唐櫃越えを使ったという意見もあるが(足利健亮『地理から見た
    信長・秀吉・家康の戦略』)、深夜西山の尾根線を通れば篝火を焚くことになり、
    かえって京都の住民に見られる可能性がある。唐櫃越えの終着点である西山の
    法華山寺(京都市)は、十六世紀には衰退しており、このルート自体が当時使用
    されなくなっていた。むしろ、山陰道は西山丘陵の南麓を通過しており、京都からの
    視界を覆い隠す役割を果たしたと言ってよいだろう。/・・・

個人的に気になったのは、天正6年(1578年)4月に毛利勢が山中鹿介が籠る上月城を攻撃したので、
信長は信忠を総大将に佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、光秀を播磨に派遣した際(本書94頁)、

    ・・・/光秀はこのとき、連歌を通じて昵懇の連歌師里村紹巴に書状を送っている
    (五月四日付、光秀書状『竹内文平氏所蔵文書』)。これによると、播磨下向の
    道すがら、生田の森、須磨、明石、人丸塚など、名所を過ぎたことを記し、
    紹巴のことを思い起こしている。彼は今回の戦いを「西国と分目[わけめ]之合戦」と
    評しているが、実際には敵方は籠城を選択しているため[←毛利方の播磨の別所氏ら?]、
    合戦には至らないだろうとも記している。猶々書(追伸)には複数の連歌を記しており、
    その評を期待している。激しい戦闘が続くなか、まるで物見遊山に行くような気分で
    文面を書いているが、どんなときでも文化人としての心構えを失わない彼の性格が見える。
    /・・・

この件に小生の目が留まったのは言うまでもなく最初の三つ(生田の森、須磨、明石)が歌枕だから
だけど、最後の一文は、「しかし結果として織田方の後詰は徹底さを欠き、旧尼子勢力が籠る上月城
は毛利方に攻め落とされた。ただ、東播磨の神吉城、志方城は織田方の圧倒的攻勢によって討伐する
ことができた。」と続くんだから、肯定的・好意的な評価と素直に受け止めていいのだろうか(^_^;)
タグ:歴史 伝記
コメント(8) 
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コメント 8

tai-yama

もしかしたら某都知事も「(コロナ)戦線が広がるなか、そうした人間的
な魅力だけで自粛を要請するだけでは限界も感じていたのであろう」
だったり。新宿に御屋敷があるから本能寺の変は起こらないか(笑)。
by tai-yama (2021-04-27 23:06) 

ナベちはる

「本能寺の変」がなぜ起きたかということは知りたい方が多いような内容ですが、それを知りたいと思って読んだら知ることは出来ず…というのは少し残念とも感じますね((+_+))
by ナベちはる (2021-04-28 02:19) 

middrinn

宿舎である都知事公館は豪華過ぎると批判され、
tai-yama様、売却されてしまったかと(^_^;)
by middrinn (2021-04-28 05:15) 

middrinn

光秀についての本は、どうして信長を裏切ったかとか、
ナベちはる様、本能寺の変ばかりですからねぇ(^_^;)
by middrinn (2021-04-28 05:17) 

enosan

いつもご訪問 & nici! ありがとうございます。
庭木に野鳥が来ているのでしょうか、野鳥が来る良い環境ですね。
我が家にも来るのですが来るのは1~2月頃の餌が無くなる頃だけ、それも餌のミカンをくれると喜んで食べるメジロとヒヨドリだけ。家の中から望遠レンズで写しています。
by enosan (2021-04-28 08:43) 

middrinn

メジロさん、ヒヨドリさん、シジュウカラさん、スズメさん、ハトさんが常連で、
色々と勝手に食べてますし、ヒヨドリさんとハトさんは巣を作ったことも(^_^;)
和歌山産のミカンでしょうから、美味しくて大喜びして食べてるのでは(〃'∇'〃)
藤棚、「3分咲き程度」でも愉しめますから、満開なら凄いでしょうね(〃'∇'〃)
貴ブログに書き込んだ七重八重の歌に関するコメ、削除して構いませんよ(^_^;)
by middrinn (2021-04-28 09:05) 

yokomi

真実を探るため、やはりタイムマシンと身体透明化薬の開発を急ぐべきかと(^_^;) 大河ドラマ「麒麟が来る」の終盤は見ないでしまいました(>_<)
by yokomi (2021-04-30 22:52) 

middrinn

ぜひ発明して下さい(^o^)丿 大河は学生時代から全く視なくなりました(^_^;)
by middrinn (2021-05-01 07:25) 

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