190928読んだ本
Yahoo! JAPANカードを利用するとPayPayボーナスライトを最大5%還元と言われても小生は殻刑民(^_^;)
扇風機は昨夜ついに仕舞った(^_^;) 今夏もエアコン使わずに乗り切っちゃったオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
冬は使えるよう今度こそ部屋を片付けなきゃ(ノ_-;)ハア… 明日から本気出す〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
【読んだ本】
五味文彦&本郷和人(編)『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館,2009)
朝日新聞だと朝刊の政治面の最下段に「首相動静」と題して首相の前日の行動が載ってて、例えば、
官邸を何時に誰が訪ねたといった情報が出てるけど、政治評論家、研究者、ノンフィクション作家、
伝記作家などは同欄を丹念にチェックして、その取材・調査・研究目的に照らして意義のある情報を
抽出してるんだろうね(´・_・`) 鎌倉幕府の公的記録である『吾妻鏡』は、「首相動静」の如く365日
記録しているわけではないので、記載されていること自体が編者にとって何か意味があってのことと
考えられるけど、読んでて何のために載っているのか小生にはチト理解に苦しむ条が結構ある(^_^;)
建永2年(1207)3月1日の条(本書98頁)は『吾妻鏡』編者は何を言いたくて記載したのかな(@_@;)
一日、丙子。桜・梅などの樹木が多く(御所の)北御壺に植えられた。
永福寺から移されたものである。
承元5年(1211)閏正月9日の条(本書142頁)、その後、鶯についての記述が出てくるのかなぁ(^_^;)
九日、壬戌。晴れ。永福寺の辺りから、梅の木一本が御所の北面に移植された。これは
北野社[=北野天満宮]の庭の(梅の)種である。濃い香りが素晴しいだけでなく、
南側の枝に鶯の巣があった。これにより大事にされたという。
まさか源実朝が詠んだとされる歌を菅原道真の歌に結びつけるための伏線だったりしてヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
むしろ建暦2年(1212年)2月1日の条に出てくる「梅花一枝」のエピソードのためと解したいな(^_^;)
一日、戌寅。未明、将軍家(源実朝)が和田新兵衛尉朝盛を御使者として、
梅花一枝を塩谷兵衛尉朝業に送り遣わされた。この時(実朝が)仰った。
「名乗らずに『たれにか見せん。』とだけ(朝業に)言って、返事を聞かずに
帰って来るように」。朝盛は御命令に背かず、すぐに帰ってきた。朝業が間もなく
一首の和歌を奉った。
うれしさも匂も袖に余りけり 我為おれる梅の初花
この「現代語訳・注」を担当した1967年生まれ「東海大学文学部非常勤講師」という「落合義明」は、
たれにか見せん 「君ならで誰にか見せん梅の花をも香をも知る人ぞ知る」
(『古今集』・春上、紀友則)の歌を踏まえたもの。
うれしさも… この歌は、朝業の家集『信生法師日記』にも収められている。
と注(本書302頁)で解説している(⌒~⌒) こーゆー遣り取りが源実朝は好きだったみたいだね(^_^;)
というのは、建永元年(1206)の11月18日と12月23日の両条に次のように記載されているからね(^_^;)
十八日、乙未。東平太重胤が下総国より(鎌倉に)参上した。この者は(実朝の)
並びない近習であったが、ほんのしばらく暇をもらって下向したところ、在国が
数ヵ月に及んだ。そこで(実朝は)和歌を遣わして(重胤を)召されたが、
なおも遅参したので、(実朝の)お怒りを蒙って謹慎したという。
二十三日、己巳。晴れ。(東)重胤が相州(北条義時)のところに参り、「(実朝の)
お怒りを蒙ったことは、歎き悲しみが止りません。」と申した。義時が仰った。
「(お怒りが)ずっと続くことはなかろう。およそこのような災いに遭うのは、
仕えている者の習いである。ただし和歌を献上すれば、きっと(実朝)の御機嫌も
良くなるであろう」。そこで(重胤は)その場で筆を取り一首を詠んだ。義時は
これに感心し、(重胤を)伴ない御所に参られた。重胤は門外を徘徊していた。
時に将軍家(源実朝)はちょうど南面にお出ましであった。義時は重胤の歌を
(実朝の)御前に披露され、「重胤は愁いのあまりに心中を(私に)述べました。
事の次第は哀れです。」と申された。実朝は(和歌を)二・三度口ずさみ、
すぐに(重胤を)御前に召され、「片土の冬気」・「枯野の眺望」・「鷹狩」・
「雪の後朝」など(の歌題)について尋ねられた。数刻の後に義時は退出された。
重胤は庭で見送り、手を合わせ、「(義時の)配慮によって許しを受け、
沈んでいた気持ちが晴れました。子孫たちも長く(北条氏の)門下に祗候します。」
と申したという。
本書巻頭の本郷和人「本巻の政治情勢」に照らして考えると、北条義時のことを良く描くための挿話
なのかもしれないけど、承元3年(1209)7月5日の条を読むと、興味深いエピソードに思える(^_^;)
五日、丙申。将軍家(源実朝)が夢のお告げにより、二十首の御詠歌を住吉社に
奉納された。和歌をよくして、(藤原)定家朝臣の弟子でもある内藤右馬允知親が
御使者となった。この機会に去る建永元年に学び始められた後の御歌三十首を選び、
添削を受けるために定家朝臣に送られた。
「建永元年」は元久3年4月27日からゆえ、先のエピソードは「学び始め」てまだ半年余りの頃(^_^;)
和歌にハマってしまい、楽しくて仕方なくて、重胤に「和歌を遣わし」たり、歌題について「尋ね」
たりしたのではないかと(^_^;) 承元3年(1209)8月13日の条には定家からのプレゼントが(〃'∇'〃)
十三日、甲戌。(内藤)知親(元は朝の字であった。美作蔵人(源)朝親と、名乗りの
字が着到の時に混乱するので改めた)が京都から(鎌倉に)帰ってきた。(実朝が)
京極中将(藤原)定家朝臣に遣わされていた御歌に添削が加えられ返された。
また(定家は)詠歌口伝一巻を献上した。これは(実朝が)六義の歌風のことを、
内々に尋ねられていたためである。
「現代語訳・注」は1984年生まれ「東京大学大学院修了」「熊坂友雅」が担当し、290頁に次の如し(^^)
詠歌口伝一巻 源実朝の求めに応じ、藤原定家が書いて贈った歌論書。『近代秀歌』。
六義 紀貫之が古今集序において述べた、和歌の六種の風体。そえ歌・かぞえ歌・
なぞらえ歌・たとえ歌・ただこと歌・いわい歌。
144~145頁の建暦元年(1211)4月29日の条、和歌の世界ではありがちな微笑ましいエピソードだけど、
無理矢理、その後の源実朝の運命を暗示する伏線である、とか解釈されちゃうのかしら(^_^;)
二十九日、庚戌。曇り。未明に将軍家(源実朝)が永福寺に出かけられた。相模太郎殿
(北条泰時)がお供した。その他は(藤原)範高・(内藤)知親・(二階堂)行村・
(東)重胤・(町野)康俊らであった。皆(永福寺に)歩いて向かった。これは、
ここで昨日の朝ほととぎすの初音を聞いたと申す者がいたためである。林のそばに着いて
数刻待たれたが、その声は聞かれなかったので、空しく帰られた。今日、永福寺のことは
(二階堂)行村が奉行するよう命じられた。
・源実朝が詠んだとされる歌に関する『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』の注の解説は不勉強ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-11-05
・『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』に載っている文屋康秀についての「僧」の発言が解せぬぞ(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-19
・『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』に出てくる朱雀門造営に関する三善康信の発言が気になる(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-21
・『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』にある仁田忠常の富士の人穴探険に関する注の無教養ぶり(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-22
扇風機は昨夜ついに仕舞った(^_^;) 今夏もエアコン使わずに乗り切っちゃったオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
冬は使えるよう今度こそ部屋を片付けなきゃ(ノ_-;)ハア… 明日から本気出す〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
【読んだ本】
五味文彦&本郷和人(編)『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館,2009)
朝日新聞だと朝刊の政治面の最下段に「首相動静」と題して首相の前日の行動が載ってて、例えば、
官邸を何時に誰が訪ねたといった情報が出てるけど、政治評論家、研究者、ノンフィクション作家、
伝記作家などは同欄を丹念にチェックして、その取材・調査・研究目的に照らして意義のある情報を
抽出してるんだろうね(´・_・`) 鎌倉幕府の公的記録である『吾妻鏡』は、「首相動静」の如く365日
記録しているわけではないので、記載されていること自体が編者にとって何か意味があってのことと
考えられるけど、読んでて何のために載っているのか小生にはチト理解に苦しむ条が結構ある(^_^;)
建永2年(1207)3月1日の条(本書98頁)は『吾妻鏡』編者は何を言いたくて記載したのかな(@_@;)
一日、丙子。桜・梅などの樹木が多く(御所の)北御壺に植えられた。
永福寺から移されたものである。
承元5年(1211)閏正月9日の条(本書142頁)、その後、鶯についての記述が出てくるのかなぁ(^_^;)
九日、壬戌。晴れ。永福寺の辺りから、梅の木一本が御所の北面に移植された。これは
北野社[=北野天満宮]の庭の(梅の)種である。濃い香りが素晴しいだけでなく、
南側の枝に鶯の巣があった。これにより大事にされたという。
まさか源実朝が詠んだとされる歌を菅原道真の歌に結びつけるための伏線だったりしてヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
むしろ建暦2年(1212年)2月1日の条に出てくる「梅花一枝」のエピソードのためと解したいな(^_^;)
一日、戌寅。未明、将軍家(源実朝)が和田新兵衛尉朝盛を御使者として、
梅花一枝を塩谷兵衛尉朝業に送り遣わされた。この時(実朝が)仰った。
「名乗らずに『たれにか見せん。』とだけ(朝業に)言って、返事を聞かずに
帰って来るように」。朝盛は御命令に背かず、すぐに帰ってきた。朝業が間もなく
一首の和歌を奉った。
うれしさも匂も袖に余りけり 我為おれる梅の初花
この「現代語訳・注」を担当した1967年生まれ「東海大学文学部非常勤講師」という「落合義明」は、
たれにか見せん 「君ならで誰にか見せん梅の花をも香をも知る人ぞ知る」
(『古今集』・春上、紀友則)の歌を踏まえたもの。
うれしさも… この歌は、朝業の家集『信生法師日記』にも収められている。
と注(本書302頁)で解説している(⌒~⌒) こーゆー遣り取りが源実朝は好きだったみたいだね(^_^;)
というのは、建永元年(1206)の11月18日と12月23日の両条に次のように記載されているからね(^_^;)
十八日、乙未。東平太重胤が下総国より(鎌倉に)参上した。この者は(実朝の)
並びない近習であったが、ほんのしばらく暇をもらって下向したところ、在国が
数ヵ月に及んだ。そこで(実朝は)和歌を遣わして(重胤を)召されたが、
なおも遅参したので、(実朝の)お怒りを蒙って謹慎したという。
二十三日、己巳。晴れ。(東)重胤が相州(北条義時)のところに参り、「(実朝の)
お怒りを蒙ったことは、歎き悲しみが止りません。」と申した。義時が仰った。
「(お怒りが)ずっと続くことはなかろう。およそこのような災いに遭うのは、
仕えている者の習いである。ただし和歌を献上すれば、きっと(実朝)の御機嫌も
良くなるであろう」。そこで(重胤は)その場で筆を取り一首を詠んだ。義時は
これに感心し、(重胤を)伴ない御所に参られた。重胤は門外を徘徊していた。
時に将軍家(源実朝)はちょうど南面にお出ましであった。義時は重胤の歌を
(実朝の)御前に披露され、「重胤は愁いのあまりに心中を(私に)述べました。
事の次第は哀れです。」と申された。実朝は(和歌を)二・三度口ずさみ、
すぐに(重胤を)御前に召され、「片土の冬気」・「枯野の眺望」・「鷹狩」・
「雪の後朝」など(の歌題)について尋ねられた。数刻の後に義時は退出された。
重胤は庭で見送り、手を合わせ、「(義時の)配慮によって許しを受け、
沈んでいた気持ちが晴れました。子孫たちも長く(北条氏の)門下に祗候します。」
と申したという。
本書巻頭の本郷和人「本巻の政治情勢」に照らして考えると、北条義時のことを良く描くための挿話
なのかもしれないけど、承元3年(1209)7月5日の条を読むと、興味深いエピソードに思える(^_^;)
五日、丙申。将軍家(源実朝)が夢のお告げにより、二十首の御詠歌を住吉社に
奉納された。和歌をよくして、(藤原)定家朝臣の弟子でもある内藤右馬允知親が
御使者となった。この機会に去る建永元年に学び始められた後の御歌三十首を選び、
添削を受けるために定家朝臣に送られた。
「建永元年」は元久3年4月27日からゆえ、先のエピソードは「学び始め」てまだ半年余りの頃(^_^;)
和歌にハマってしまい、楽しくて仕方なくて、重胤に「和歌を遣わし」たり、歌題について「尋ね」
たりしたのではないかと(^_^;) 承元3年(1209)8月13日の条には定家からのプレゼントが(〃'∇'〃)
十三日、甲戌。(内藤)知親(元は朝の字であった。美作蔵人(源)朝親と、名乗りの
字が着到の時に混乱するので改めた)が京都から(鎌倉に)帰ってきた。(実朝が)
京極中将(藤原)定家朝臣に遣わされていた御歌に添削が加えられ返された。
また(定家は)詠歌口伝一巻を献上した。これは(実朝が)六義の歌風のことを、
内々に尋ねられていたためである。
「現代語訳・注」は1984年生まれ「東京大学大学院修了」「熊坂友雅」が担当し、290頁に次の如し(^^)
詠歌口伝一巻 源実朝の求めに応じ、藤原定家が書いて贈った歌論書。『近代秀歌』。
六義 紀貫之が古今集序において述べた、和歌の六種の風体。そえ歌・かぞえ歌・
なぞらえ歌・たとえ歌・ただこと歌・いわい歌。
144~145頁の建暦元年(1211)4月29日の条、和歌の世界ではありがちな微笑ましいエピソードだけど、
無理矢理、その後の源実朝の運命を暗示する伏線である、とか解釈されちゃうのかしら(^_^;)
二十九日、庚戌。曇り。未明に将軍家(源実朝)が永福寺に出かけられた。相模太郎殿
(北条泰時)がお供した。その他は(藤原)範高・(内藤)知親・(二階堂)行村・
(東)重胤・(町野)康俊らであった。皆(永福寺に)歩いて向かった。これは、
ここで昨日の朝ほととぎすの初音を聞いたと申す者がいたためである。林のそばに着いて
数刻待たれたが、その声は聞かれなかったので、空しく帰られた。今日、永福寺のことは
(二階堂)行村が奉行するよう命じられた。
・源実朝が詠んだとされる歌に関する『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』の注の解説は不勉強ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-11-05
・『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』に載っている文屋康秀についての「僧」の発言が解せぬぞ(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-19
・『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』に出てくる朱雀門造営に関する三善康信の発言が気になる(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-21
・『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』にある仁田忠常の富士の人穴探険に関する注の無教養ぶり(@_@;)
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今年はエアコンを過去最長につかったわ。生命維持装置だった。
by nikki (2019-09-28 18:01)
命にかかわる云々と、今夏はニュースで
何度も注意を喚起してましたね(^_^;)
by middrinn (2019-09-28 18:41)
最近暑い日が多いですね、昨日と今日はエアコンをつけてしまいました。
9月末にエアコンをつけるなんて、やはり温暖化の影響ですかね~。
by TYPES (2019-09-28 19:31)
まだまだ日中は夏のような暑さが残ってますね((;゚Д゚)ヒィィィ!
梅雨が長かったから、夏も後ろにずれ込んでたりして(^_^;)
by middrinn (2019-09-28 19:52)
鎌倉じゃ和歌を嗜む人も少なさそうなので、唯一の和歌友だったの
かも。バイクも関東では和歌と同じく、マイナーな趣味と・・・
by tai-yama (2019-09-28 20:21)
マニアックな趣味同士で結束したんですかね(^_^;) ただ、本巻を読むと随所に
幕府幹部クラスとも歌会を催している記述が( ̄◇ ̄;) 関東を離れますか(^_^;)
by middrinn (2019-09-28 20:28)
エアコン、我が家は本日も稼働してました(⌒-⌒; )
明日も暑いそうですが、いつになったらエアコンのお世話に
ならずに済む秋が来るんでしょうねぇ(*_*)
by ニッキー (2019-09-28 21:51)
エアコン、9月が終わりそうなのにまだ稼働しています。
いつになったらエアコンを稼働しなくてよくなるか、見当が付きません(^^;
by ナベちはる (2019-09-29 01:25)
30度に達してなくても、体感的には、
ニッキー様、凄く暑くて、エアコンを
お使いになるのも理解できます^_^;
by middrinn (2019-09-29 05:53)
この後、すぐに暖房でお使いになられるかもしれないので、
ナベちはる様、エアコンのお手入れも、お忘れなく(^o^)丿
by middrinn (2019-09-29 05:55)
おはようございます^^
middrinnさんのお住まいは結構涼しい所かしら。わたくしはまだ扇風機は出しています。
エアコンはあまり使わないからコンセントも抜いたまま…
by mimimomo (2019-09-29 06:43)
30度なかったですし、昨日は風もあったので(^_^;) むしろ寝床に入ってから、
身体が熱っぽいのが(´ヘ`;) エアコンはリモコンの電池も外してます(^_^;)
by middrinn (2019-09-29 06:47)
こんにちは^^
リモコンの電池も抜きました。今夏の始め、リモコンが壊れて買いなおしたもの。それまで電池入れっぱなし(--;
middrinnさんに言われて思い出したわ^^ 来年は大丈夫ね^^
by mimimomo (2019-09-29 12:01)
電池が液漏れしてリモコンとか使えなくなっちゃうことありますからね(^_^;)
by middrinn (2019-09-29 12:23)
北国の寒村、今日も暑いです(>_<) 扇風機は使いませんけど、使いたいっ(^_^;)
晩夏に間に合うだろう、涼みたいと7月末に発注したエアコン、付いたのは敬老の日の直前(>_<) こんなんだったら、10月以降に発注するんでした(>_<)
by yokomi (2019-09-29 12:50)
たしかに扇風機を使いたくなりますね(-ω-、)
でも、そちらは涼しそうなイメージが(^_^;)
10月以降だと増税で高くなってましたよ^_^;
by middrinn (2019-09-29 14:19)
「源実朝←正岡子規好き」対「後鳥羽院←酒井抱一好き」が根っ子にあって、実朝オンリーの子規は「抱一俳諧嫌い」(絵画は好きなのかも)を強調しているのかも?
何時ぞやの『日本文学史早わかり(丸谷才一著)」は、『後鳥羽院』(日本詩人選)の執筆過程での副産物の感じだネ。「日本詩人選」では『源実朝』は吉本隆明でした。「丸谷才一対吉本隆明」も「抱一対子規」の関係かも???
by yahantei (2019-09-30 09:27)
その構図、両方とも面白いですねぇ(〃'∇'〃) 丸谷のエッセイを読んだのは
和歌に興味が無かった頃なので、近く全て読み直そうかと(^_^;) 本書の
承元2年(1208)5月29日に「・・・[藤原]清綱は代々受け継いだ物だと
言って、『古今和歌集』一部を進上した。左金吾(藤原)基俊が書いたと
申した。(和歌の)先人の筆跡であり、すでに末代までの重宝と言えよう。
(実朝は)特に感心され、また現在の洛中のことを尋ねられた。・・・」と
ありますが、建保元年(1213)11月23日に藤原定家から献上された相伝の
『万葉集』一部を受け取ると、〈・・・(実朝は)たいそう大事にされ、
「重宝としてこれに勝るものはない。」と仰ったという。・・・」とあって、
源実朝の『万葉集』への傾倒がよぉーく伝わってくる書き方でした(^_^;)
by middrinn (2019-09-30 18:26)