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240504読んだ本【バカチン】
辞世の歌で下の句に「それにつけても金の欲しさよ」・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;あの世も金次第であると?
一昨日、ブックオフで『更級日記』角文の220円をスルーし、ランチは貯まったスタンプで500円引き
になるも、1000円余の期間限定販売のチョコを買っちった(@_@;) 節約6年!o(-`д´- o)ガンバル!!
【読んだ本(バカチン)】
竹内玄玄一(著)雲英末雄(校注)『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫,1987)所蔵本
杜国に関する記述の誤り(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-11-01 )や
宗祇と芭蕉の句の間違い(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-04-22 )が
本書にはあることを指摘してきたが、宗祇の「世を辞するの歌」として本書が紹介している次の歌に
ついては「不審(@_@;)」と先日は記した(^_^;)
はかなしや鶴の林の煙にも立ちおくれぬる身こそ恨むれ
この胡散臭~い「世を辞するの歌」の元ネタと思われる歌が、奥田勲(日本歴史学会編集)『宗祇』
(吉川弘文館人物叢書,1998新装版)の次の記述(同書223頁)から判明v( ̄∇ ̄)ニヤッ
・・・/明応十年(一五〇一、文亀元年)、八十一歳/宗祇は越後で正月を迎えた。
二月十五日、京都の三条西実隆のもとに新年の挨拶の書状が届いた(「再昌草」)。
それには「思ひやれ鶴の林の煙にもたちをくれぬる老のうらみを」という歌が書き
添えてあった。鶴の林は釈迦の八十歳入滅を言っているから、それにも遅れて徒に
齢を重ねた恨みを八十一歳の正月に当たって述懐した歌と理解できるが、「立ち遅れ」
に後土御門[天皇]の[前年の9月28日]崩御を偲ぶ気持ちが込められているとする
解釈(金子[金治郎]『宗祇と箱根』)も捨てがたい。/・・・
竹内玄玄一による捏造なら論外だが、そうでなかったとしても、宗祇の「世を辞するの歌」で間違い
ないと思って紹介しているんだから、この竹内玄玄一は宗祇に関して(も)詳しくないようだ(^_^;)
廣木一人『シリーズ日本の旅人 連歌師という旅人 宗祇越後府中への旅』(三弥井書店,2012)から
も引いておこう(同書176~177頁)( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・/越後に下向しての最初の正月、宗祇は三条西実隆に、自分が釈迦の歳を越えて
八十一歳になったことを詠んだ歌を添えた手紙を送った。実隆の家集『再昌草』にその
ことに関わる詞書と歌が見える。
宗祇法師、越の国に侍りしが、今年八十一歳になりぬることを申して、
文の奥に書き付けて送りたりし、
思ひやれ鶴の林の煙にもたち遅れぬる老の恨みを
返事に
末の法[のり]残りの年をしたふかな鶴の林の春過ぎしより
この文、二月十五日になん来たりたりし。
釈迦は八十歳で亡くなった。「鶴の林」は釈迦が亡くなった場所に生えていた沙羅双樹の
木が悲しんで白鶴のように白く枯れたことをいう。「末の法」は末法の世のことをいう。
左注に宗祇の手紙が届いたのが二月十五日であるとするのは、この日が釈迦入滅の日で
あるからであろう。/このようなことを見てくると、宗祇が『宗祇終焉記』の中で「我も
この国にして限りを待ち侍れば」と述べていることも含めて、終の棲家を求めて越後府中
へ来たということの信憑性は確かになりそうである。果たしてそうであったかどうかは
熟考してみる必要があるかも知れないが、それはそれとして、老齢になっての遠国への旅
はいつもそれなりの覚悟があってのことであったとするべきであるし、今回はその覚悟は
切実なものであったとは思われる。/・・・
丁寧かつ慎重に考察を進めている廣木一人は同書において更に次の指摘(同書194~195頁)(⌒~⌒)
・・・/このような中で、新年を迎える。文亀二年、宗祇八十二歳、最後の年である。
『宗祇終焉記』の次の部分を引く。
元日には宗祇、夢想の発句にて連歌あり。
年や今朝あけの忌垣[いがき]の一夜[ひとよ]松
この一座の次いでに、
この春を八十[やそぢ]に添へて十歳[ととせ]てふ道のためしやまたも始めん
と賀し侍りし。返し、
いにしへのためしに遠き八十だに過ぐるはつらき老の恨みを
おなじき九日、旅宿にして一折[ひとをり]つかうまつりしに、発句、
青柳も年に真拆[まさき]の葛[かづら]かな 宗祇
夢想の発句は「一夜松」、託宣により京都の右近馬場に一夜にして千本の松が生え、
そこに菅原道真を祀る北野天満宮を建立したという伝説に関わる事柄を詠み込んだ
もので、連歌神である北野天神を寿いだ発句である。「夢想」は夢の中で神仏から
示された句をいい、建前上、この句は宗祇の口を借りて神が詠んだということになる。
老人であることと昨年末のつらい状況を絡めれば、今年もまた新年を迎えることが
できたという感慨と取れるが、新年の発句はいずれもこのような祝言と言えるものが
一般であるから、特に宗祇の個人的心情を汲み取る必要はないかも知れない。/次の
和歌は宗長のものである。歌道関係者には八十歳に十歳を加え、九十の賀を祝った
藤原俊成の例もある。同じように先生も九十歳に向かって道をお進みください、という
祝賀の歌である。これも正月の歌として取り立てて言うべきことのないものである。
/次の「いにしへ」のは宗長の歌に対する宗祇の返歌で、こちらは正月にはふさわしく
ない「つらい老の恨み」が読まれている。一年前、宗祇は八十一歳になった時、実隆に
手紙の中で次の歌を送っていた。先にも引いたが、『再昌草』に見えるものである。
思ひやれ鶴の林の煙にもたち遅れぬる老の恨みを
この歌と心情は同じだと言える。これが宗祇の新年を迎えた時の感慨であったのである。
/・・・
この「宗長の歌に対する宗祇の返歌」からも、宗長が「駿河の医者にかかることをすすめた」とか、
そして、それを宗祇が受け入れて「駿河」への旅に出たかの如く記述してる中西進『辞世のことば』
(中公新書,1986)の宗祇の項が如何にバカチンであるかは理解できるかと〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
一昨日、ブックオフで『更級日記』角文の220円をスルーし、ランチは貯まったスタンプで500円引き
になるも、1000円余の期間限定販売のチョコを買っちった(@_@;) 節約6年!o(-`д´- o)ガンバル!!
【読んだ本(バカチン)】
竹内玄玄一(著)雲英末雄(校注)『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫,1987)所蔵本
杜国に関する記述の誤り(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-11-01 )や
宗祇と芭蕉の句の間違い(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-04-22 )が
本書にはあることを指摘してきたが、宗祇の「世を辞するの歌」として本書が紹介している次の歌に
ついては「不審(@_@;)」と先日は記した(^_^;)
はかなしや鶴の林の煙にも立ちおくれぬる身こそ恨むれ
この胡散臭~い「世を辞するの歌」の元ネタと思われる歌が、奥田勲(日本歴史学会編集)『宗祇』
(吉川弘文館人物叢書,1998新装版)の次の記述(同書223頁)から判明v( ̄∇ ̄)ニヤッ
・・・/明応十年(一五〇一、文亀元年)、八十一歳/宗祇は越後で正月を迎えた。
二月十五日、京都の三条西実隆のもとに新年の挨拶の書状が届いた(「再昌草」)。
それには「思ひやれ鶴の林の煙にもたちをくれぬる老のうらみを」という歌が書き
添えてあった。鶴の林は釈迦の八十歳入滅を言っているから、それにも遅れて徒に
齢を重ねた恨みを八十一歳の正月に当たって述懐した歌と理解できるが、「立ち遅れ」
に後土御門[天皇]の[前年の9月28日]崩御を偲ぶ気持ちが込められているとする
解釈(金子[金治郎]『宗祇と箱根』)も捨てがたい。/・・・
竹内玄玄一による捏造なら論外だが、そうでなかったとしても、宗祇の「世を辞するの歌」で間違い
ないと思って紹介しているんだから、この竹内玄玄一は宗祇に関して(も)詳しくないようだ(^_^;)
廣木一人『シリーズ日本の旅人 連歌師という旅人 宗祇越後府中への旅』(三弥井書店,2012)から
も引いておこう(同書176~177頁)( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・/越後に下向しての最初の正月、宗祇は三条西実隆に、自分が釈迦の歳を越えて
八十一歳になったことを詠んだ歌を添えた手紙を送った。実隆の家集『再昌草』にその
ことに関わる詞書と歌が見える。
宗祇法師、越の国に侍りしが、今年八十一歳になりぬることを申して、
文の奥に書き付けて送りたりし、
思ひやれ鶴の林の煙にもたち遅れぬる老の恨みを
返事に
末の法[のり]残りの年をしたふかな鶴の林の春過ぎしより
この文、二月十五日になん来たりたりし。
釈迦は八十歳で亡くなった。「鶴の林」は釈迦が亡くなった場所に生えていた沙羅双樹の
木が悲しんで白鶴のように白く枯れたことをいう。「末の法」は末法の世のことをいう。
左注に宗祇の手紙が届いたのが二月十五日であるとするのは、この日が釈迦入滅の日で
あるからであろう。/このようなことを見てくると、宗祇が『宗祇終焉記』の中で「我も
この国にして限りを待ち侍れば」と述べていることも含めて、終の棲家を求めて越後府中
へ来たということの信憑性は確かになりそうである。果たしてそうであったかどうかは
熟考してみる必要があるかも知れないが、それはそれとして、老齢になっての遠国への旅
はいつもそれなりの覚悟があってのことであったとするべきであるし、今回はその覚悟は
切実なものであったとは思われる。/・・・
丁寧かつ慎重に考察を進めている廣木一人は同書において更に次の指摘(同書194~195頁)(⌒~⌒)
・・・/このような中で、新年を迎える。文亀二年、宗祇八十二歳、最後の年である。
『宗祇終焉記』の次の部分を引く。
元日には宗祇、夢想の発句にて連歌あり。
年や今朝あけの忌垣[いがき]の一夜[ひとよ]松
この一座の次いでに、
この春を八十[やそぢ]に添へて十歳[ととせ]てふ道のためしやまたも始めん
と賀し侍りし。返し、
いにしへのためしに遠き八十だに過ぐるはつらき老の恨みを
おなじき九日、旅宿にして一折[ひとをり]つかうまつりしに、発句、
青柳も年に真拆[まさき]の葛[かづら]かな 宗祇
夢想の発句は「一夜松」、託宣により京都の右近馬場に一夜にして千本の松が生え、
そこに菅原道真を祀る北野天満宮を建立したという伝説に関わる事柄を詠み込んだ
もので、連歌神である北野天神を寿いだ発句である。「夢想」は夢の中で神仏から
示された句をいい、建前上、この句は宗祇の口を借りて神が詠んだということになる。
老人であることと昨年末のつらい状況を絡めれば、今年もまた新年を迎えることが
できたという感慨と取れるが、新年の発句はいずれもこのような祝言と言えるものが
一般であるから、特に宗祇の個人的心情を汲み取る必要はないかも知れない。/次の
和歌は宗長のものである。歌道関係者には八十歳に十歳を加え、九十の賀を祝った
藤原俊成の例もある。同じように先生も九十歳に向かって道をお進みください、という
祝賀の歌である。これも正月の歌として取り立てて言うべきことのないものである。
/次の「いにしへ」のは宗長の歌に対する宗祇の返歌で、こちらは正月にはふさわしく
ない「つらい老の恨み」が読まれている。一年前、宗祇は八十一歳になった時、実隆に
手紙の中で次の歌を送っていた。先にも引いたが、『再昌草』に見えるものである。
思ひやれ鶴の林の煙にもたち遅れぬる老の恨みを
この歌と心情は同じだと言える。これが宗祇の新年を迎えた時の感慨であったのである。
/・・・
この「宗長の歌に対する宗祇の返歌」からも、宗長が「駿河の医者にかかることをすすめた」とか、
そして、それを宗祇が受け入れて「駿河」への旅に出たかの如く記述してる中西進『辞世のことば』
(中公新書,1986)の宗祇の項が如何にバカチンであるかは理解できるかと〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
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