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240328読んだ本

読者は知性の持ち主だろうから、この程度で解るかと( ̄^ ̄)ヾ(-_-;)書くのが面倒になっただけだろ?

【読んだ本】

久保田淳(校注・訳)『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集 とはずがたり』(小学館,1999)

高倉天皇と中宮(平清盛女の徳子で後の建礼門院)について建礼門院右京大夫が詠んだ歌(後掲A)
では「月日」なのに、その現代語訳では「日月」と入れ替わっている点を不審に思ったことが契機と
なって、三日前、昨日と彼女が詠んだ歌三首を少しばかり論じてきたが、詞書と現代語訳は省略して
糸賀きみ江(全訳注)『建礼門院右京大夫集』(講談社学術文庫,2009)から改めて引く(@_@;)

    A 雲の上に かかる月日の ひかり見る 身の契りさへ うれしとぞ思ふ

    B 雲のうへに ゆくすゑとほく 見し月の ひかり消えぬと 聞くぞかなしき

    C かげならべ 照る日のひかり かくれつつ ひとりや月の かき曇るらむ

本書所収の久保田淳(校注・訳)『建礼門院右京大夫集』の頭注は「照る日の光」を〈高倉院をたと
える。「草深き霞の谷に影かくし照る日のくれしけふにやはあらぬ」(古今・哀傷 文屋康秀)。〉
と説明してて(本書98~99頁)、『古今和歌集』入集の文屋康秀の当該歌(Dとする)は「深草帝の
御国忌の日、よめる」と詞書にあるように「日」とは仁明天皇のこと(@_@;) 小島憲之&新井栄蔵
(校注)『新日本古典文学大系5 古今和歌集』(岩波書店,1989)は同歌の脚注で次の指摘(@_@;)

    天皇を「日(太陽)」にたとえるのは万葉集以来のこと。

更に同書は「春宮の生れ給へりける時に参りて、よめる」という詞書をもつ藤原因香のE「峰たかき
かすがの山にいづる日はくもる時なく照らすべらなり」の脚注でも次のように指摘している(@_@;)

    万葉集では天皇・皇子を太陽神の天照大神の子孫として「日のみ子」という。

『万葉集』については、注釈書も持ってないし、不勉強ゆえ分からぬが、東征の際に神武天皇の兄の
五瀬命が「私は日の神の御子として、日に向かって戦うのは良くなかった。」(三日前の記事の返信
コメ)と述べてるし、手元の辞書で「日」の項を見ても、『大辞林』第一版第一刷には「⑭日の神。
天照大神の子孫である意から、皇室に関することに付けていう語。」、守随憲治&今泉忠義&松村明
(監修)『旺文社古語辞典 〔改訂新版〕』(旺文社,1965→1969)には「⑧日の神。太陽の神、すな
わち天照大神の子孫と考えられた天皇・皇室を表わす語。」、佐伯梅友&森野宗明&小松英雄(編著)
『例解古語辞典 第二版 ポケット版』(三省堂,1985第3刷)には「⑥《太陽の神である天照大御神の
子孫と考えられたことから》天皇。また、皇子。」とされてたので、上記の指摘は予想通り(@_@;)

しかし、現にBの歌は「お隠れになった」高倉院を「月」に喩えたものであり、「万葉集以来」常に
〈天皇を「日(太陽)」にたとえ〉ているわけではない(@_@;) また次の歌も同様である(@_@;)

      菩提樹院に、後一条院の御影を描きたるを見て、見なれ申しけることなど
      思ひ出でてよみ侍りける

    F いかにして 写しとめけむ 雲居にて あかず別れし 月の光を

久保田淳&平田喜信(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)は「月の光」
を「後一条院の暗喩」と脚注に記しているが、「月光と御影とを重ねる技巧が優れている。」とも評
しているように「月の光」=「後一条院の御影」が正確であり、Fの歌が出てくる竹鼻績(全訳注)
『今鏡(上)』(講談社学術文庫,1984)も〈「月の光」は、後一条院の御影のたとえ。〉と、また
松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(七)』(角川書店,1978)も「・・・月の光
を後一条院の御影にたとえ、・・・」としている(@_@;) 故に、Fの歌も「後一条院」を「月」に
喩えており、小島憲之&新井栄蔵が指摘するような〈「日(太陽)」にたとえ〉てはいない(@_@;)

なお、Fの歌は『栄花物語』では出羽弁ではなく「中納言」の作とされており、出羽弁の作としては
松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(六)』(角川書店,1976)に次の歌があり、
「後一条院」を「在明の月」に喩えている(@_@;)

    G めぐりあはん 頼みもなくて 出づべしと 思ひかけきや 在明の月

ちなみに、森本元子編『和歌文学新論』(明治書院,1982)所収の島田良二の論文「八代集における
月について」が次のように論じている(@_@;)

    ・・・万葉集の月の歌はどういう内容のものであるか見てみよう。/月を「月読
    [つくよみ]」と表現しているのは万葉集のみで古今集以後はほとんど用いられ
    ていない。「月読」は元来月の神をいう。古代信仰の言葉がまだ生きていた時代
    である。/・・・

    ・・・/同じく月を「月読壮子[をとこ]」「月人」「月人壮子[つきびとをとこ]」
    と言う。月は男性であったところから擬人化して言う。/・・・

『万葉集』では「月は男性であった」ようだが、Aの歌の「月」を久保田淳は「中宮」と解し、Cの
歌の「月」は久保田淳も糸賀きみ江・前掲書も「中宮」としている(@_@;) 前掲『日本古典評釈・
全注釈叢書 栄花物語全注釈(六)』に「およびなく影も見ざりし月なれど雲隠るるは悲しかりけり」
なる作者不明の歌が出ており、この「月」は白河天皇の亡くなった中宮賢子を喩えたものゆえ、この
ように女性が「月」に喩えられているところに『万葉集』の規範力の弱さが垣間見えるかと(@_@;)

思うに、「天皇。また、皇子。」という前掲『例解古語辞典 第二版 ポケット版』の「日」の語義は
不正確であり、

    天皇・皇太子(東宮)。(退位した)上皇や(天皇になれぬ)皇子・親王などは「月」。

が正確ではないかと(@_@;) 説明が必要な歌だけ述べると、Cの歌は高倉院の天皇在位中のことを
当時お仕えしていた建礼門院右京大夫、あるいは「なにごともげに末の世にあまりたる御事にや」と
申す「人」が詠んだものかと(@_@;) Dの歌は仁明天皇は在位中に亡くなってるからで、Eの歌の
「春宮」は醍醐天皇の第一皇子で皇太子になった保明親王(@_@;) FとGの両歌の「後一条院」、
後一条天皇は実は在位中の崩御だったが、生前に譲位したとする建前に従って詠まれたもの(@_@;)
「(天皇になれぬ)皇子・親王」とは『伊勢物語』にも出てくる次の歌を念頭に置いている(@_@;)

      惟喬親王の、狩しける供にまかりて、宿りに帰りて、夜一夜、酒を飲み、物語を
      しけるに、十一日の月も隠れなむとしける折に、親王、酔ひて内へ入りなむと
      しければ、よみ侍ける

    飽かなくに まだきも月の 隠るゝか 山の端にげて 入れずもあらなむ

僅か数首の歌から思い付いた仮説に過ぎないから、簡単に反証されちゃうかもしれないけど(@_@;)

[追記240330]

「皇太子(東宮)」に関しては、藤原仲文の次の歌で早くも反証されてしまった(^_^;) 小町谷照彦
(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)から訳とともに引く(^_^;)

      冷泉院の東宮におはしましける時、月を待つ心の歌、男どもの詠み侍けるに

    有明の 月の光を 待つほどに 我が世のいたく ふけにける哉

     有明の月の出るのを待っている間に、夜がたいそう更けてしまったことだ。
     ──東宮の恩寵により我が身が栄達することを期待して待っている間に、
     すっかり年老いてしまったことだ。

[追記240330]

陽明門院(=三条天皇皇女で後三条天皇の生母である禎子内親王)の歌が後朱雀天皇のことを「月」
と詠んでいたので、小島憲之&新井栄蔵・前掲書の指摘や前掲『例解古語辞典 第二版 ポケット版』
(「月」「雲居」の項に出てない)とともに小生が提示した仮説も完全に反証されてしまった(^_^;)

      後朱雀院御時、月のあかかりけるよ、うへにのぼらせたまひて
      いかなることか申させたまひけん

    いまはただ くもゐの月を ながめつつ めぐりあふべき ほどもしられず

       御朱雀院の御代、月が明るい夜、帝のもとに参上なさり、
       どのようなことを帝に申しあげなさったのでしょうか

     いまはただ内裏の上にかかる月を眺めていますが、宮中にいらっしゃる帝と、
     この月がめぐるように再びいつお会いできる日があるとも知れません。

犬養廉&平野由紀子&いさら会『笠間注釈叢刊19 後拾遺和歌集新釈 下巻』(笠間書院,1997)から
訳も引いたが(橋本令子執筆)、この歌が詠まれたのは長暦元年(1037年)正月の直前のことの由、
後朱雀天皇の在位期間(長元9=1036年~寛徳2=1045年)である(^_^;) 「くもゐの月」の語釈には
次の指摘が(^_^;)

    成句として見えるのは『天徳四年内裏歌合』(三七 中務)が早い。天空の月の意味で
    詠まれ、宮中の月、天皇の比喩として使われる例は[陽明門院の]当該歌以降に多くなる。
    当該歌が契機となったか。

なお、中務の歌は、稲賀敬二『女流歌人 中務 ─歌で伝記を辿る─』(新典社選書,2009)によれば、
「ことならば 雲井の月と なりななむ 恋しきかげや 空に見ゆると」のことかと___φ( ̄^ ̄ )メモメモ
タグ:和歌
コメント(6) 
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そら

知性の?
いや、全くわからん(^^;
by そら (2024-03-28 19:31) 

middrinn

拙ブログを覗かれているぐらいだから、知性がおありですよ(^o^)丿
by middrinn (2024-03-28 20:16) 

tai-yama

上皇は影のキングメーカー(金丸とか二階、あと森?)なので
「月」のたとえは確かにあっているかも(笑)。
長嶋は太陽、野村は月(見草)なイメージも。
by tai-yama (2024-03-28 23:45) 

middrinn

目白の闇将軍の闇の如く夜でも真っ暗なイメージゆえ月光で明るいのはチト(^_^;)
by middrinn (2024-03-29 05:31) 

df233285

11世紀には危機感が余り無く、尤もらしさからフィーリングで
「後一条院は月に準えられた」ように、私には見えました。危機感
から「そもそも論」にきちんと回帰した人間と、駄目人間貴族に、
12世紀後半には、朝廷内は2分化したという事ですかね。
by df233285 (2024-03-30 06:39) 

middrinn

「追記」にあるように、11世紀から(在位中の)天皇
も「月」と詠まれることが多くなったようです(^_^;)
by middrinn (2024-03-30 14:42) 

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