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240225読んだ本

二日。双六の采、二の内親王の鼻の内に入る。僧都慶円、加持し出だす事〈御衣・度者を給ふ。〉。
と『小記目録』の長保5年(1003年)8月2日条にあって(国際日本文化研究センター「摂関期古記録
データベース」)、全てが面白すぎるぞ(^_^;) 「采」=サイコロ(賽)の大きさが気になる(^_^;)
この「二の内親王」とは長保2年(1000年)12月に皇后定子が産んだ一条天皇の媄子内親王ね(^_^;)

【読んだ本】

目加田さくを『私家集全釈叢書4 源重之集・子の僧の集・重之女集全釈』(風間書房,1988)所蔵本

    ・・・浜名の橋に着いた。浜名の橋が、(三年前上総に)下った時は黒っぽい丸太
    をわたしてあった、(それが)このたびは跡さえ見えないので、舟で渡る。(以前
    あったのは)入江にかけてあった[仮設の黒っぽい丸太の]橋である。(入江の)
    外側の海はひどく荒れ、浪が高くて、入江の、なんの風情もない洲などには、とり
    わけ何もなく、(ただ)松原が茂っている中から波が寄せかえるのも、色とりどりの
    玉のように見え、ほんとに(「末の松山波も越えなむ」と古歌に歌われるように)、
    松の梢から波は越えるように見えて、たいそう気持が良い。/・・・

池田利夫(訳注)『現代語訳対照 更級日記』(旺文社文庫,1978)の現代語訳で引いた菅原孝標女ら
が上総から上京する途中の「浜名の橋」の件だけど、同件の上の頭注欄で秋山虔(校注)『新潮日本
古典集成 更級日記』(新潮社,1980)は次のように指摘している(@_@;)

    * この旅の記が基本的には歌枕の地名を連綴[れんてい]するものであることに
      注意したい。作者は歌枕への関心によって各々の土地とかかわりあってゆくの
      だが、そのことを突きぬけて随所で独自の斬新な風景を発見していることも
      見逃せまい。

「浜名の橋」も「歌枕」の一つだが、この件でも「独自の斬新な風景を発見している」のかどうか、
「発見している」としたら「独自の斬新な風景」とは「こと物もなく松原の茂れる中より[=「他の
物は何もなくただ松原が茂っているその間から」と傍注訳]、浪の寄せ返るも、いろいろの玉のやう
に見え[←「砕け散る波頭が日光を受けて輝くさま。」と頭注]、」のことか、説明が無い(@_@;)

この「風景」を菅原孝標女が「まことに松の末より波は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし」
と評したのは、まさに「独自の斬新な」ものだったことを、関根慶子(全訳注)『更級日記(上)』
(講談社学術文庫,1977)が指摘していた( ̄◇ ̄;)

    /『古今集』東歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波もこえなむ」を
    ふまえている。この歌意は、「君をさしおいて他の人を想うような浮気心を、
    もし私が持ったとしたら、末の松山すら波もこえてしまうでしょう」となり、
    絶対に変心しないということを誓った歌であって、末の松山を波がこえるという
    事態は、めったにあり得ない、あるとしたら大変な天変地異が起るときのこと
    である意が含まれている。しかし、ここでは末の松山を波がこえるときの美しい
    情景に転用して、現に見ている「いみじくおもしろ」い風景をたとえていること
    に注意すべきであろう。・・・

    ・・・浜名の橋のあたりでは、松を透かして波しぶきの見えるのを、美しい筆致
    で描いている。そして注意すべきは、ここで、「末の松山」の古歌のふまえ方が、
    普通とは違って自由に用いられていることである。語釈で記したように、「末の
    松山」を波がこえるというのは、あり得ないことのたとえで、この古歌は、不変
    の愛を誓った歌であるから、普通この歌をふまえるとき、その意にそって、たと
    えば『源氏物語』明石巻で、・・・浮舟巻でも、・・・とあるのである。しかし
    『更級日記』のここでは、あり得ないことではなくて、「まことに……」であり、
    松原の茂みの中から、いろいろの玉のように見えるという、古歌になかった美景
    を導き出しているのである。・・・

王安石の「典故の逆用」(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-07-05 )を
連想したけど、池田利夫・前掲書や秋山虔・前掲書その他も『更級日記』の当該叙述が「末の松山」
の古歌を踏まえていることは指摘するが、古歌とは逆の意に用いている点の指摘は無かった(@_@;)

ちなみに、「松を透かして波しぶき」が「見える」ほど「海はひどく荒れ、浪が高」いなんてことが
実際に「あり得」るのかと言えば、菅原孝標女が通過した寛仁4年(1020年)より25年前の長徳元年
(995年)に源重之が詠んだ歌を本書から引くv( ̄∇ ̄)ニヤッ

      さねかたの君のともにみちのくにゝくだるに、いつしかはまなのはしわたらんと
      おもふに、はやくはしはやけにけり

    みづのうへのはまなのはしもやけにけりうちけつなみやよりこざりけむ

       [藤原]実方の君が陸奥守として赴任する伴に、私も陸奥に下向する折に、
       (浜名湖にさしかかり)早く浜名の橋を渡ろうと思うと、とっくの昔に橋は
       焼けてしまっていたよ

     水上に架けた浜名の橋も火災で焼けてしまってたよ。火を消す浪は寄せて
     くれなかったのだろうかまあ、水の上というのにさ。

本書の語釈では「・・・[右に引用した]更級[日記]の記事でも想像されるように、浪が高く寄せ
かえる風景をみて、橋が焼けおちた事に奇異の感を抱いた実感であろう。」と指摘されていた(^^)v
『更級日記』に描かれた「美景」は実は源重之の歌をヒントに菅原孝標女が創作したものかも(^_^;)
タグ:紀行 古典 和歌
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

最近流行りの想定外なら「末の松山」を波が超えるかも・・・
浜名の橋が焼けている時、海の水をかけて消火できなかったのかな?
by tai-yama (2024-02-25 22:51) 

middrinn

もし火事が起きても海辺の物件というのは必ず鎮火できるんですかね(@_@;)
by middrinn (2024-02-26 05:46) 

df233285

藤原隆家は雙六するんですね。情報御提供誠に感謝いたします。
by df233285 (2024-02-26 06:35) 

middrinn

寛弘4年(1007年)8月19日の時点で藤原隆家は
たしかに権中納言とはいえ、この「権中納言」
が隆家であると断定まではしてませんよ(^_^;)
『小右記』だと擲賽や擲賽の戯・興の参加者に
隆家の名前もあるので、双六もやりそう(^_^;)
by middrinn (2024-02-26 14:56) 

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