230731読んだ本
「雑草という草はない」とは実は〈全ての草に俺が学名を付けてやる!〉という意気込みかも(^_^;)
【読んだ本】
木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』(実業之日本社,1995)
・・・
梨木 ・・・そういえば、このあいだ新聞で、田中さんが、「雑草という草はない」
という牧野さんの言葉の出典を突き止めたとの記事を拝見しました。
田中 先生の言葉だと言われながら、これまで確証がなかったんですけれど、
木村久邇典[くにのり]の著書『周五郎の生き方を学ぶ』の中に、
牧野先生が、当時雑誌記者だった山本周五郎に、「きみ、世の中に
〝雑草〟という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている」
と言ったという記述があったのです。
・・・
上記件が芸術新潮の2023年7月号の梨木香歩(作家)と田中純子(練馬区立牧野記念庭園学芸員)に
よる対談「老少年・牧野富太郎さんへ」にあって本書を披くも、「出典」とは言えないだろ(@_@;)
当該「記述」は、本書の「第五章」の「〝雑兵〟と呼ばれていい気がするか」(本書222~227頁)に
あったけど、この一篇は本書251頁の「収録作品初出一覧(カッコ内は原題)」には載って無くて、
本書巻頭の三浦昇「本書に寄せて 『橋の下』から」に「・・・本書には、木村さんの書き下ろしを
ふくめた原稿が追加されている。」(本書9頁)とあることから「書き下ろし」らしく、初出は本書
発行年の平成7年(1995年)となる(@_@;) それでは、「〝雑兵〟と呼ばれていい気がするか」から
ポイントとなる記述(本書222~224頁及び227頁)を引く(@_@;)
/山本周五郎は青春時代の一時期、帝国興信所(現・帝国データバンク)が母体
[ママ]となって発行していた雑誌「日本魂」に、編集記者として勤めていたことが
ある。大正十四年(一九二五)の前半から昭和三年(一九二八)の十月二十五日に
わたるおよそ四年間で、二十二歳から二十五歳にかけてであった。/・・・/山本は
この雑誌に・・・も発表し、また無署名の談話口述筆記を手際よくまとめるという
ソツのなさも示した。/・・・/・・・/在社当時、山本青年が千葉県浦安の寓居で
つづった日録『青べか日記』によると、/〈安藤広太郎博士を訪ねた。親しみ易い
人だ。(昭和三・八・二二)〉〈二十四日には佐藤鉄太郎(海軍)中将と会った。
(九・二六)〉/などの記述がみえるほか、大島健一陸軍中将、寺島健大佐(のち
海軍中将)、藤田霊斎等に面接して聞き取った談話を、清水三十六[さとむ]の本名
で「日本魂」に執筆している。/戦後、山本がわたくしに語った回顧談では、右翼の
大立者だった頭山満に会ったこともあり、植物学者の牧野富太郎博士を訪問したこと
もあったという。/牧野博士と対談中に、山本青年は「雑草」という言葉を口走った
らしい。博士はなじるような口調で山本に云った。/「きみ、世の中に〝雑草〟という
草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という
言葉がキライだ。松、杉、楢、楓、櫟──みんなそれぞれ固有名詞が付いている。
それを世の多くのひとびとが〝雑草〟だの〝雑木林〟だのと無神経な呼び方をする。
もしきみが、〝雑兵〟と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名
がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームでキチンと呼んで
あげるのが礼儀というものじゃないかね」/これにはおれも、一発ガクンとやられた
ような気がしたものだった。まったく博士の云われるとおりだと思うな。/わたくし
が山本周五郎を初めて訪れたのは昭和二十二年(一九四七)の春から夏にかけての
ことだった。・・・
・・・/山本周五郎は牧野富太郎博士の率直なたしなめの言葉のなかから、ただちに
大きな教訓を感得したものだったに相違ない。でなければ、あんなにもしばしば、
牧野博士の思い出を語ったわけがない。/
「無署名の談話口述筆記」と「面接して聞き取った談話を、清水三十六の本名で・・・執筆」、後者
が正確かと(@_@;) というのは、本書の「第四章 山本周五郎のサラリーマン時代」(「収録作品
初出一覧(カッコ内は原題)」によると「周五郎〝以前〟」という題で小説新潮1995年7月号掲載)
に次の記述(本書209頁)があり、「ざっと十九本」(本書210頁)が本書209~210頁に列挙され、
「談話筆記」として寺島健、安藤広太郎、藤田霊斎、大島健一、佐藤鉄太郎の計五本が記されていた
からである(@_@;)
・・・/以下、清水三十六が帝国興信所(日本魂社)在社中に、「日本魂」に執筆した
原稿を発表順に列記してみよう。/・・・
さて、さて、さ~て!列挙されてる清水三十六(山本周五郎)が「日本魂」に執筆した原稿「ざっと
十九本」の中には牧野富太郎の「談話筆記」なんて無い(@_@;) 仮に清水三十六(山本周五郎)が
牧野富太郎に「面接して聞き取った」ことが当時あったとしても、「日本魂」に掲載されず世に出て
いない以上は「出典」になりようがない(@_@;)
また本書の「第四章 山本周五郎のサラリーマン時代」には次の指摘(本書213頁)もある(@_@;)
・・・この『日記』[=浦安時代の日録『青べか日記』]によって、各界名士の
何人かの談話を筆記したのが三十六だったことが裏づけられるのも興味深い。/
すなわち『日記』には、/・・・
安藤広太郎、藤田霊斎、池部鈞(画家・「日本魂」常連執筆者で「デッサンを見せに行った。」)、
佐藤鉄太郎の名が出てくることが本書213~214頁で指摘されるが、牧野富太郎の名は『青べか日記』
には出てないようで、「山本周五郎は牧野富太郎博士の率直なたしなめの言葉のなかから、ただちに
大きな教訓を感得したものだったに相違ない。でなければ、あんなにもしばしば、牧野博士の思い出
を語ったわけがない」というのに当時の日録に出てこないのは不審だし、清水三十六(山本周五郎)
が牧野富太郎に「面接して聞き取った」ことを「裏づけ」るものが無い(@_@;) 木村久邇典が山本
周五郎から「昭和二十二年(一九四七)」以降「しばしば」聞いたというのを信じたとしても(^_^;)
もしもこんなのが「出典」として通用するのなら、幾らでも捏造は可能かとオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
「植物図鑑は牧野博士の発明品」は虚説と俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(平凡社新書,1999)(^_^;)
前掲誌には「・・・牧野自身がつけた説明書きを参照した意訳。」も付した牧野富太郎の「赭鞭一撻
[しゃべんいったつ]」15箇条が紹介されていて、その中の一つを引いておく(^_^;)
書を家とせずして友とすべし
書物を盲信するな
【読んだ本】
木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』(実業之日本社,1995)
・・・
梨木 ・・・そういえば、このあいだ新聞で、田中さんが、「雑草という草はない」
という牧野さんの言葉の出典を突き止めたとの記事を拝見しました。
田中 先生の言葉だと言われながら、これまで確証がなかったんですけれど、
木村久邇典[くにのり]の著書『周五郎の生き方を学ぶ』の中に、
牧野先生が、当時雑誌記者だった山本周五郎に、「きみ、世の中に
〝雑草〟という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている」
と言ったという記述があったのです。
・・・
上記件が芸術新潮の2023年7月号の梨木香歩(作家)と田中純子(練馬区立牧野記念庭園学芸員)に
よる対談「老少年・牧野富太郎さんへ」にあって本書を披くも、「出典」とは言えないだろ(@_@;)
当該「記述」は、本書の「第五章」の「〝雑兵〟と呼ばれていい気がするか」(本書222~227頁)に
あったけど、この一篇は本書251頁の「収録作品初出一覧(カッコ内は原題)」には載って無くて、
本書巻頭の三浦昇「本書に寄せて 『橋の下』から」に「・・・本書には、木村さんの書き下ろしを
ふくめた原稿が追加されている。」(本書9頁)とあることから「書き下ろし」らしく、初出は本書
発行年の平成7年(1995年)となる(@_@;) それでは、「〝雑兵〟と呼ばれていい気がするか」から
ポイントとなる記述(本書222~224頁及び227頁)を引く(@_@;)
/山本周五郎は青春時代の一時期、帝国興信所(現・帝国データバンク)が母体
[ママ]となって発行していた雑誌「日本魂」に、編集記者として勤めていたことが
ある。大正十四年(一九二五)の前半から昭和三年(一九二八)の十月二十五日に
わたるおよそ四年間で、二十二歳から二十五歳にかけてであった。/・・・/山本は
この雑誌に・・・も発表し、また無署名の談話口述筆記を手際よくまとめるという
ソツのなさも示した。/・・・/・・・/在社当時、山本青年が千葉県浦安の寓居で
つづった日録『青べか日記』によると、/〈安藤広太郎博士を訪ねた。親しみ易い
人だ。(昭和三・八・二二)〉〈二十四日には佐藤鉄太郎(海軍)中将と会った。
(九・二六)〉/などの記述がみえるほか、大島健一陸軍中将、寺島健大佐(のち
海軍中将)、藤田霊斎等に面接して聞き取った談話を、清水三十六[さとむ]の本名
で「日本魂」に執筆している。/戦後、山本がわたくしに語った回顧談では、右翼の
大立者だった頭山満に会ったこともあり、植物学者の牧野富太郎博士を訪問したこと
もあったという。/牧野博士と対談中に、山本青年は「雑草」という言葉を口走った
らしい。博士はなじるような口調で山本に云った。/「きみ、世の中に〝雑草〟という
草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という
言葉がキライだ。松、杉、楢、楓、櫟──みんなそれぞれ固有名詞が付いている。
それを世の多くのひとびとが〝雑草〟だの〝雑木林〟だのと無神経な呼び方をする。
もしきみが、〝雑兵〟と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名
がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームでキチンと呼んで
あげるのが礼儀というものじゃないかね」/これにはおれも、一発ガクンとやられた
ような気がしたものだった。まったく博士の云われるとおりだと思うな。/わたくし
が山本周五郎を初めて訪れたのは昭和二十二年(一九四七)の春から夏にかけての
ことだった。・・・
・・・/山本周五郎は牧野富太郎博士の率直なたしなめの言葉のなかから、ただちに
大きな教訓を感得したものだったに相違ない。でなければ、あんなにもしばしば、
牧野博士の思い出を語ったわけがない。/
「無署名の談話口述筆記」と「面接して聞き取った談話を、清水三十六の本名で・・・執筆」、後者
が正確かと(@_@;) というのは、本書の「第四章 山本周五郎のサラリーマン時代」(「収録作品
初出一覧(カッコ内は原題)」によると「周五郎〝以前〟」という題で小説新潮1995年7月号掲載)
に次の記述(本書209頁)があり、「ざっと十九本」(本書210頁)が本書209~210頁に列挙され、
「談話筆記」として寺島健、安藤広太郎、藤田霊斎、大島健一、佐藤鉄太郎の計五本が記されていた
からである(@_@;)
・・・/以下、清水三十六が帝国興信所(日本魂社)在社中に、「日本魂」に執筆した
原稿を発表順に列記してみよう。/・・・
さて、さて、さ~て!列挙されてる清水三十六(山本周五郎)が「日本魂」に執筆した原稿「ざっと
十九本」の中には牧野富太郎の「談話筆記」なんて無い(@_@;) 仮に清水三十六(山本周五郎)が
牧野富太郎に「面接して聞き取った」ことが当時あったとしても、「日本魂」に掲載されず世に出て
いない以上は「出典」になりようがない(@_@;)
また本書の「第四章 山本周五郎のサラリーマン時代」には次の指摘(本書213頁)もある(@_@;)
・・・この『日記』[=浦安時代の日録『青べか日記』]によって、各界名士の
何人かの談話を筆記したのが三十六だったことが裏づけられるのも興味深い。/
すなわち『日記』には、/・・・
安藤広太郎、藤田霊斎、池部鈞(画家・「日本魂」常連執筆者で「デッサンを見せに行った。」)、
佐藤鉄太郎の名が出てくることが本書213~214頁で指摘されるが、牧野富太郎の名は『青べか日記』
には出てないようで、「山本周五郎は牧野富太郎博士の率直なたしなめの言葉のなかから、ただちに
大きな教訓を感得したものだったに相違ない。でなければ、あんなにもしばしば、牧野博士の思い出
を語ったわけがない」というのに当時の日録に出てこないのは不審だし、清水三十六(山本周五郎)
が牧野富太郎に「面接して聞き取った」ことを「裏づけ」るものが無い(@_@;) 木村久邇典が山本
周五郎から「昭和二十二年(一九四七)」以降「しばしば」聞いたというのを信じたとしても(^_^;)
もしもこんなのが「出典」として通用するのなら、幾らでも捏造は可能かとオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
「植物図鑑は牧野博士の発明品」は虚説と俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(平凡社新書,1999)(^_^;)
前掲誌には「・・・牧野自身がつけた説明書きを参照した意訳。」も付した牧野富太郎の「赭鞭一撻
[しゃべんいったつ]」15箇条が紹介されていて、その中の一つを引いておく(^_^;)
書を家とせずして友とすべし
書物を盲信するな
雑草こそ、「ザ(the)・草」とも言えたり(笑)。
雑兵がだめだと、雑煮もだめかも。
by tai-yama (2023-07-31 23:49)
草生えたwwwwwwwwwwwwwwとはいえず、
イマイチゆえ座布団はあげられません(^_^;)
by middrinn (2023-08-01 06:15)
作り話ではないか。ホントに牧野富太郎の言葉だとは思えない。
生き物には皆名前が付いているのかもしれないが、「ちゃんと」、
つまりいつも「正しい」とは限らない。「キマダラヒカゲ蝶」が、
「ヤマキマダラヒカゲ蝶」と「サトキマダラヒカゲ蝶」に
分解されたような例は、牧野富太郎ならすぐに気が付くので、
言葉を選ぶか「ちゃんと」という形容は、とっさにすら、
し無いのがプロのはずだ。それとも70過ぎて「寄る年波」か?
by df233285 (2023-08-01 06:36)
山本周五郎の創作か木村久邇典の創作の可能性が(@_@;)
まだ昭和天皇の言葉の方が「出典」がたしかかと(^_^;)
「植物図鑑」といい信者は牧野の発明にしたがる(^_^;)
by middrinn (2023-08-01 10:48)