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230424読んだ本【バカチン】

原文が間違っている上に、その現代語訳まで間違っているんだからね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本(バカチン)】

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)所蔵本

藤原道長の日記『御堂関白記』で、藤原道長が言葉を間違って使っていること、その誤りに倉本一宏
も気付いているのに、つい引きずられてしまったか、間違った使い方の訳文にしていた本書(^_^;)

先ずは正しく使っている同日記の長和2年(1013年)10月16日条を、倉本一宏(全現代語訳)『藤原
道長「御堂関白記」(中)』(講談社学術文庫,2009)の訳で引く(^^)

     十六日、甲戌。 入宋僧念救と雑事を語る

    早朝、小雨が降った。雪も交っていた。これは初めての雪であった。帰朝していた念救は、
    父母を訪ねるために、土佐国に下向した。念救は、土佐守(藤原)季随の許に賜う仰書を
    請うてきた。そこで仰書を賜った。中国についての雑□を、念救と語り合った。宜しい話
    も有った。

「宜しき事等有り。」(国際日本文化研究センター「摂関期古記録データベース」の訓読文で、以下
も同様)が何か気になるけど、「帰朝していた念救」(「帰朝の念救」)の「帰朝」の使い方は問題
ナシオン主権(^^) ところが、同日記の長和4年(1015年)7月15日条の冒頭部分では「帰朝」という
言葉が間違って使われており、「摂関期古記録データベース」の訓読文と本書の訳文を引く(^_^;)

     十五日、壬戌。

    唐僧念救、帰朝す。唐の天台山より求むる所の作料物を送る。・・・

     十五日、壬戌。 入宋僧念救、帰朝/藤原済家、母馬を献上/念救に書状を託す

    入唐僧念救が宋に帰朝した。唐の天台山から求めてきた大慈寺の作料物を送った。

「入唐僧」なら日本人で(現に父母が土佐にいる由)、「帰朝」ではなく、正しくは〈渡唐〉(^_^;)
「帰朝」とは手元の『大辞林』第一版第一刷にも「外国から日本に帰ってくること。」とある(^_^;)

    ・・・/寂照は、長保五年(一〇〇三)に宋にわたり、時の真宗皇帝から円通大師の号
    と紫衣を賜っている。寂照は宋商人を介して、入宋後も道長と親しく書簡を交わしている
    のである。当時、天台山大慈寺の再建が計画され、寂照がこれに協力して、寄進をつのる
    ため、弟子の念救を一時帰国させたことがあった。寂照は念救を介して道長に摺本の
    『白氏文集』や天台山図を贈り、寄進への協力を仰いだのであった。これを受けて道長が
    寄進のため多くの品々を用意したことが、『御堂関白記』に書き連ねられている。やがて
    念救は、長和五年(一〇一六)七月に道長の書状や寄進物、仏典購入のための金をたずさ
    えて、宋の寂照の許にもどっている。/・・・

河添房江『唐物の文化史 舶来品からみた日本』(岩波新書,2014)は斯く記してて、(気になる点が
別にあるも)念救は「宋の寂照の許にもど」るのに一年かかったのか(@_@;) 典拠は何だ(@_@;)
タグ:歴史
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

几帳面に約を見直していれば"帰朝"の間違いに気づけたかも(笑)。
土佐の両親の下に帰ったり、道長以外からもお金や寄進を集めて
いそうなので、一年ぐらいはかかるのかも。
by tai-yama (2023-04-24 23:32) 

middrinn

一読では駄洒落とは気付きませんでした(^_^;)「唐僧」と
記されてるから、道長は何度も会ってるのに念救が日本人で
あるのを忘れてしまい、中国人と勘違いしたのかも(^_^;)
『小右記』の翌16日条に〈右衛門督、示し送りて云はく、
「昨日、左相府に参る。雑物等を入唐僧念救に預けらる〈
「卿相已下の智識物を取り集め、送らる」と云々。〉。・・
・〉とあり、もはや「集め」終わって出発直前かと(^_^;)
道長の誤記(誤解?)に倉本は気付いていない気も(^_^;)
by middrinn (2023-04-25 06:23) 

df233285

念救が1年日本に留まったのも謎だが。なぜ藤原道長の
家、土御門第が火事の頃を見計らって、北宋に戻ったのか。
後片付けの手伝いが嫌で逃げたのか。あるいは土御門第に
対する火事の見舞いを、道長からたらいまわしして貰って
天台山大慈寺の資金が集まったので、喜んで中国に
もどったのか?

by df233285 (2023-04-25 07:40) 

middrinn

たしかに、『御堂関白記』によると長和5年(1016年)
7月21日に道長の土御門第は焼亡してますから、その
頃に念救が都から出立したというのは変ですね(^_^;)
「摂関期古記録データベース」で念救を検索しても、
『小右記』の長和4年(1015年)7月21日条で話題に
なっているのが最後ですから、念救の出立は長和4年
(1015年)7月15日直後と考えるのが自然かと(^_^;)
河添房江は「長和五年(一〇一六)七月に・・・宋の
寂照の許にもどっている」と記してますけど、寂照は
『宋史』にも出てくるようですが、その弟子の念救が
「宋の寂照の許にもどっ」たことが宋の文献に出てる
とは思えませんし、何か典拠があるのか疑問(@_@;)
長和4年(1015年)7月と書くつもりが誤記か(@_@;)
by middrinn (2023-04-25 10:52) 

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