朝からビックリしたのは3万以上の値が付けられてた某漫画の第1巻が買われたことヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
いくら稀少とはいえマイナーな作品なので最近その値で出品された時には、買う人いねーだろ!と
笑ったけど、小生は世間知らずだったようだ(^_^;) でも、その漫画は全20数巻セットが1万円台で
買えるので第1巻だけ持ってなかった人なのかな(@_@;) とまれ、マジで眠気が吹っ飛んだ(^_^;)
昨日言及した芸新掲載の鹿島茂によるトゥールーズ=ロートレックの小伝でルイ・シュヴァリエの
『歓楽と犯罪のモンマルトル』が引用されてて、文藝春秋刊の単行本を持ってた気がしたので昨夜
は遅くまで探して見付からなかった上に寝不足に(+_+) 足の踏み場が無く本棚の裏側を全て調べら
れなかったけど、同『労働階級と危険な階級 19世紀前半のパリ』(みすず書房,1993)は発掘し、
ほぼ新品(本体価格6500円で定価6695円)を5000円で購入とはチト高いだろ!と今は思う(^_^;)

【読んだ本(バカチン)】

山中裕(日本歴史学会編集)『藤原道長』(吉川弘文館人物叢書,2008新装版)

道長は知性ある読書人ゆえ(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-18 )、
摺本『白氏文集』を所蔵も「長恨歌」が『和漢朗詠集』や「日本に伝存する古写本」『白氏文集』の
とは異なることに気付いたので非摺本『白氏文集』を「希望して贈ってもらった」のではないかと
歴史学的妄想力を発揮(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-26 )(^_^;)

実資や公任のような藤原氏の嫡流ではなかったために、道長は「家に伝来の書物がないのである」と
清水好子が指摘(^_^;) だからこそ道長は、書物を蒐集、てゆーか、献上されまくったことが、日記
『御堂関白記』に記されてて、献上された『白氏文集』等を一条天皇に気に入られようと賄賂として
献上しても(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-08 )、それなりに蔵書
を持つに至っている(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-11-26 )(^_^;)

この道長に献上された書物や道長の蔵書に関して、本書116~117頁は次のように理解する( ̄◇ ̄;)

    ・・・その日、頭中将公信が道長に、国史編修が久しく途絶えているから、作り続ける
    べく定め申せと天皇の命を伝えた。そこで諸卿が外記に先例を調べさせ、実行すること
    になり、道長はこれを天皇に奏聞した。早速実行することが決定したが(『権記』八月
    十三日条)、その後編纂が行われた様子は見えない。しかし、諸書の収集は行っていた
    ようであり、八月二十九日には、道長は棚厨子を造り、書籍二千余巻を収めた。その
    内訳は、三史・八代史・文選・白氏文集・修文殿御覧・道々書・日本書紀・六国史・令
    ・律・式等々であった。また、十月三日には源国挙から、故源伊行の蔵書四百余巻が、
    二十七日には、故大江斉光の家より宸記四巻(村上天皇の宸記か)が贈られた。これら
    はいずれも国史編修の準備のためのものと思われる(『御堂関白記』)。/これは、
    『六国史』の後も『新国史』の編纂が続いていたが、完成を見なかったものの、なお
    編纂を続けようとする意図が国家・政府にあったということを示す重要な史料である。
    また、道長自身も、この頃、多くの書物を集めることに懸命であったのは、その準備
    であろう。/・・・

「その日」というのは、寛弘7年(1010年)8月13日なんだけど(国際日本文化研究センター「摂関期
古記録データベース」で藤原行成の日記『権記』の同日条を調べても〈・・・頭中将、大臣に仰す、
「国史を修すること、久しく絶ゆ。作り続ぐべき事を定め申すべし」と。諸卿、申す、「外記をして
先例を勘申せしめ、定め行なはるべし」と。此の旨を奏聞す。「定め申すに依れ」と云々。即ち大外
記敦頼朝臣に仰せらる。〉とある)、「その」が何日を指すのか解り難く書かれている所為か、本書
巻末の「略年譜」は寛弘7年(1010年)に「八月八日、頭中将公信の進言により、一条天皇に国史
編修のことを奏聞。同二九日、棚厨子に書籍二〇〇巻を収める」(本書242頁)と誤記してた(^_^;)

さて、真っ先に思ったのは、「文選・白氏文集」は「国史編修」とどう関係するのかなぁ、と(^_^;)
そもそも、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(中)』(講談社学術文庫,2009)で
『御堂関白記』の寛弘7年(1010年)8月13日条を見ても「国史編修」の話など全く記してない(^_^;)
その後も出てこないし、道長は「国史編修」に関心が無いのではないかと(^_^;) 書物を献上された
時にも「国史編修」に一言も触れてないので書物蒐集は「国史編修」とは無関係ではないかと(^_^;)
倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)は次の通り(^_^;)

    ・・・/この頃、六国史の後の『新国史』の編修が途絶していたことを踏まえ、
    国史編修のことが議された。八月十三日、一条は道長に対し、「国史を修すること
    久しく絶ゆ。作り継ぐべき事、定め申すべし」と命じ、諸卿は「外記をして先例を
    勘申せしめ、定め行なわるべし」と奏聞した。一条は「定め申すに依れ」という
    勅定を下したが(『権記』)、このことがその後、議題に上ったことはなかった。
    一条が国史編纂による自王統の正当化をはかりたいと考えたものの、複雑な政治情勢
    の中でこの編纂再開が実現しなかったという見方もある(細井浩志「『日本紀略』
    後篇の史料的構造と『新国史』の編纂過程について」)。/・・・