人は自分の物差しでしか他人を測れないので、凡人には非凡な人物でも凡人にしか見えない(@_@;)
考え事をする際に同じ所をぐるぐる歩き回るのは、漫画の中だけの表現・描写なのだろうか(@_@;)

【読んだ本】

竹内玄玄一(著)雲英末雄(校注)『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫,1987)所蔵本

知識が偶々あり誤り発見も(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-11-01 )、
俳諧のことは無知に等しいので、芭蕉なら少しは解るかと本書の「松尾桃青」の項を読んでみたが、
次の件は言及されている人物が判らん(@_@;)

    ・・・

      名月や池をめぐりて夜もすがら

    洛の嘯山[しょうざん]記して曰く、友人雅因[がいん]さきに広沢に遊んで月を観る。
    たまたまこの詠を感じて、その精深なるを覚ゆと。

      ・・・

本書は注釈が無いので「嘯山」「雅因」が判らず、ネット検索で三宅嘯山、興津雅因のよう(@_@;)

中山義秀『芭蕉庵桃靑』(中公文庫,1975)はチョー有名な句に続けてこの句を取り上げてる(@_@;)

    ・・・/芭蕉はこの古池[←複数の注釈書も芭蕉庵の前にある古池とする]を舞台にして、
    さらにもう一つの秀句を生んだ。

      名月や池をめぐりて夜もすがら

    名月は八月十五日夜の満月、唐の白楽天が、「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」と
    詠んだその名月である。/楽天の詩は宮中の翰林院にひとり宿直[とのい]して、禁苑の
    池を前にみずみずしい光の満月をのぞみながら、遠方の友のうえを偲んでうたったもので
    あるが、芭蕉はそれとはうらはらに、貧しい賤屋のうちに侘びずまいして、古池を前に
    ひとり明月を眺めながら、この句をよんだ。/その折の彼の感慨は知るよしもないが、
    さきの蛙の句で芭蕉は、一瞬の水音に、永劫の時の寂静をつたえ、これにあっては
    一夜の明月に、悠久輪廻の相をとらえている。まさに素堂のいう、明星の輝きによって
    真如の悟をえた出山の釈尊と、趣を一にするところあるかもしれない。/・・・

「楽天の詩は宮中の翰林院にひとり宿直して、禁苑の池を前にみずみずしい光の満月をのぞみながら、
遠方の友のうえを偲んでうたったもの」とあるけど、この白居易(白楽天)の唐詩の全文を菅野禮行
(校注・訳)『新編日本古典文学全集19 和漢朗詠集』(小学館,1999)巻末の「漢詩文全文一覧」で
確認して、その訳も植木久行『唐詩歳時記』(講談社学術文庫,1995)で読んだが、禁苑の「池」など
全く出てこない(^_^;) こーゆーのが小説家のダメなところで、実作者の古典読解は信用できぬ(^_^;)

「現役俳人の投票による上位157作品」を紹介してる有馬朗人&宇多喜代子(監修)柳川彰治(編著)
『松尾芭蕉この一句』(平凡社,2009)は〈・・・「名月のすばらしさに時を忘れて、いつの間にか夜
が開[ママ]けてしまった」という誇張した表現である。〉と〔解説〕しているけど(同書151頁)、
どうして芭蕉は古池の周囲を(一晩中)回ったのか、「池をめぐりて」の説明がないのがね(@_@;)

    ・・・/この句は夜もすがら、すなわち一晩中池のまわりをめぐり歩きながら
    月を眺めたというだけで、あまりおもしろくないかもしれませんが、月見という
    ものは月ばかり眺めているものではありません。有名な李白の詩に「頭ヲ挙ゲテ
    明月[←正しくは山月]ヲ望ミ、頭ヲタレテ故郷ヲ思フ」という詩句がありますが、
    そのとおり、月を見ては物を思い、思いに耽っては月を眺めるのが月見です。/
    芭蕉も池のまわりを歩いては佇み、佇んではまた歩きながら、人生のことや、
    俳諧のことや、また故郷のことや、自分の来し方、これからの行く末のことについて
    思いをめぐらせ、時に中天を仰いで月に放心したことでしょう。/・・・

井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫,1977)からの引用だけど、月を観た芭蕉は物思いにふけった
ために古池の周りをぐるぐると回ってしまったのかも(^_^;) というのは、芭蕉は和歌にも漢詩文にも
詳しい教養人であって、漢詩文や和歌の世界では月は人を物思いにふけらせるものとされていること
から(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-02 )、そーゆー伝統を戯画化
することで俳諧ならではの諧謔、滑稽味を狙ったのかも(^_^;) 古池の周囲を徘徊・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
丸い盃が座をぐるっと一巡して望月の歌を詠んだ道長、満月は丸いから池をぐるぐる回る芭蕉(^_^;)

高浜虚子『俳句はかく解しかく味う』(岩波文庫,1989)による評も引いておこうエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

    名月の晩にその清光を称するため、或池辺に在った。余り月が明かなために帰り去るに
    忍びず、その池の周囲をめぐって終夜歩きつつあったというのである。この句の如きも
    唯事実そのままを叙したのである。

無教養な人は無教養であるが故に教養人を理解できず、自分と同じ無教養な人にしてしまう(@_@;)

・千載集や平家物語の有名な逸話なのに高浜虚子『俳句はかく解しかく味う』岩波文庫のデタラメ(-"-)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-02-19

・馬場あき子が朝日歌壇で「コオロギの鳴き声を賞でるのは日本独特」と不勉強&無教養な選評(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-09-29
 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-03-01

・『おくのほそ道』の遊行柳の件の西行の歌について苑子タン、また調べずに書いてるよ(ノ_-;)トホホ…

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-07-11

・光源氏に我が身を重ねた芭蕉を「蛸壺の中で眠るタコの気分になっている」と俳人の坪内稔典(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-07-04

・朝日連載「星の林に ピーター・マクミランの詩歌翻遊」が芭蕉『笈の小文』の句を変な解釈(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-05-14