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220906読んだ本

記事の下に広告と一緒に過去記事のタイトルが4本表示されて毎日異なるけど基準が解らん(@_@;)

【読んだ本】

小和田哲男『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中公新書,2010)

前章(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-02 )に続き、「5 武田勝頼書状
──長篠をめぐる攻防」を読むも「岡丹」=岡部丹波守長教と「岡次郎」=岡部次郎右衛門尉正綱の
名が書状に出てた点しか関心をもてず、読み進んで、「6 石田三成判物──三成と左近」「7 前田
利家書状──政宗の首はつながった」も興味ナシオン主権だが、「8 魚津在城衆十二名連署書状──
武士の死生観」の最後の件(本書96~97頁)はインパクトのある内容だったヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

    ・・・/そして、ついに六月三日、十二名の城将たちが切腹し、魚津城は落ちた。
    信長が本能寺で明智光秀の謀反に倒れた翌日のことである。/彼らが徹底抗戦を
    したのは、織田軍の攻撃をできるだけ魚津城でくいとめようという、魚津城の
    守備を任された責任感のようなものもあったと思われるが、それとともに「どうせ
    死ぬなら、後代に名を残すような戦いをして死にたい」という思いもあったのでは
    ないかと考えられる。/『景勝年譜』などによると、十二名の城将たちの切腹
    シーンは実に壮絶なものであった。彼らは、あらかじめ板札に自分の名前を書き、
    耳に穴をあけ、その板札を鉄線でゆわえつけ、切腹していったという。要するに、
    首実検のとき、その首が誰のものかがわかるようにして死んでいったことになる。
    ・・・/・・・/実は、名誉の戦死は、子孫への遺産でもあった。よく「武名を
    あげる」というが、これは本人の武名だけでなく、家名をあげることにもなった
    のである。みごとに戦い、壮烈な死をとげ、名をあげることが戦国武士道の一つ
    と認識されていたことをみておく必要がある。/当時の武将たちが、「城を枕に
    討死」ということを厭わず、むしろ進んで死んでいったとの印象を受けるのは、
    それが家名存続と連動していたからはほかならない。/事実、魚津城で死んで
    いったこの書状に連署した十二名の城将の子孫は、ほとんど近世米沢藩上杉家の
    重臣として遇されていったのである。/

幾つも首級を持って戦場を駆け回るのは大変なので首級の代わりに耳とかを削ぐと前に読んだ記憶が
あるけど、魚津城の城将たちが自らの名前を書いた板札を耳に鉄線で結わえ付けたのも、ソレと関係
あるのかな(@_@;) 首級の代用としての耳削ぎは鈴木眞哉あたりの本で読んだのかなぁ?と考えて、
とりあえず拙ブログ内を検索したら、鈴木眞哉『戦国武将のゴシップ記事』(PHP新書,2009)の目次
の「第三章 見た目」の中に「5 鬼武蔵・森長可の実像」というのを見付けて(201103読んだ本)、
嫌な予感が(´ヘ`;) 他方で、全く興味・関心が無い耳削ぎなんかが記憶に残るんだからね(-ω-、)
さて、変報は4日に織田軍に届いたので、あと一日か二日持ちこたえてたら織田軍は撤退して城将たち
は助かったはずだけど、切腹して子孫が「重臣として遇されていった」方が良かったのかな(@_@;)

・小和田哲男『戦国大名と読書』(柏書房,2014)よ、この「古歌」は建仁元年(1201年)の作ゆえ、
 文治5年(1189年)に自害した源義経が「知らなかった」のは当然ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-11

・小和田哲男『戦国武将の実力 111人の通信簿』(中公新書,2015)の著者の「教養」は1点だな(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-04
タグ:書簡 列伝 歴史
コメント(6) 
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コメント 6

tai-yama

無駄死にになるか二階級特進になるかは、ある意味死に方のプレゼン
能力とかも関わってきそうな気が・・・
耳に名札がついている方が、首を持ってくる方にも都合が良さそう。
by tai-yama (2022-09-06 22:55) 

ナベちはる

過去記事のタイトル、毎日同じ記事が表示されるならまだしも毎日違う記事が表示されるのは謎ですね((+_+))

何かしら法則性はあるはずなのですが…
by ナベちはる (2022-09-07 01:08) 

middrinn

耳だけでも、名札が付いているから、
tai-yama様、首実検も楽に(^_^;)
by middrinn (2022-09-07 05:08) 

middrinn

PV数が多い記事でもなさそうですし、
ナベちはる様、チト謎ですね(^_^;)
by middrinn (2022-09-07 05:48) 

df233285

魚津城13人守将の子孫が米沢藩に留まったのは、
米沢藩のたまたまの厚遇なだけ。通常は子孫は
悲惨な末路。「13将が予め自害して果てた」は、
基本的に失策だったを教訓とすべきと私は思う。
by df233285 (2022-09-07 08:18) 

middrinn

上杉家の家風もあるのかもしれませんね(^_^;)
もし助かってれば、城を守り抜いたことになるし、
その後も大功を挙げる機会があったかも(^_^;)
by middrinn (2022-09-07 08:46) 

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