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220619読んだ本

政略結婚の話は読んでて切なくなる(´;ω;`)ウッ… 中には女傑もいたりするけど((;゚Д゚)ヒィィィ!

【読んだ本】

司馬遼太郎(責任編集)『集英社版 人物中国の歴史 4 長城とシルクロードと』(集英社,1981)所蔵本

駒田信二『中国故事 はなしの話』(文春文庫,1981)の「細君」の項、出典の説明の後、漢和辞典や
国語辞典の様々な解釈も紹介した中に「漢、烏孫公主の名」ともあることから、後半は烏孫公主の話
になって興味深かった(^^) 匈奴を牽制するために西域の烏孫と国交を結び、烏孫の王昆莫[こんも]
の夫人として漢は公主(天子の娘)を送ることとなって、武帝は細君を選ぶも、彼女は謀叛の企てが
露見して自殺した江都王の建の娘で「武帝にとっては、一族の女のなかで、夷狄の妻とするのに最も
惜しくない者であった。」ようだが、異民族である烏孫での生活は寂しいものらしく、故郷(漢)に
帰りたいと切切と訴える烏孫公主の望郷詩が伝わっている(;_;) となると、烏孫公主のことをもっと
知りたいと思って、もしかしたら出てるかもと本棚の裏側から本書を取り出すと、檜山久雄「異国へ
嫁いだ悲運のヒロイン 烏孫公主と王昭君」があった(⌒~⌒) このシリーズは発売時に予約購入して
檜山久雄の論稿にも随所に付箋が貼ってあるけど、内容は勿論、読んだことすら憶えていない(^_^;)
檜山久雄は「二人の烏孫公主」という見出しで細君と楚王戊の孫の解憂(←女傑!)を取り上げて、
駒田信二も烏孫公主(細君)の生涯を過不足なく纏めてるけど、檜山久雄は(江都王建の謀叛・自殺
は未言及だが)要所要所でポイントとなる指摘をしてて、次の件も最後の一文で余情(´;ω;`)ウッ…

    ・・・/のちに昆莫は、死期を自覚すると、さきに子供たちの反対を押し切って
    太子に立てた孫の岑陬[しんしゅ]に、細君をめあわせようとした。父が死ぬと
    その継母をとって妻とする、というのは、『史記』が匈奴の目新しい風俗として
    書き留めたところである。おなじ遊牧民族の烏孫にもそれがおこなわれていた。
    昆莫はまだ存命中だったが、政情不安定な現在、いまのうちに次代のことを
    取り決めておきたかったのだろう。あるいは漢に帰りたがっていた細君を掣肘する
    意味もあったのかもしれない。/はたして細君は承知しなかった。父と子にしろ、
    祖父と孫にしろ、そんな形で二夫にまみえる習慣は漢族にはない。それでなくとも
    望郷の思い切なるものがあったかの女にすれば、なおさら堪えがたいことだった。
    細君は漢廷に上書して窮状を訴えた。だが、武帝からの返事は「その国の俗に從い、
    烏孫と共に胡を滅ぼさんと欲す」であった。漢にとっても、烏孫との同盟はまだ必要
    とされていたのである。それにしても、「その国の俗に從え」の勅命は、かの女の胸に
    どのように落ちたことだろうか。『漢書』は、「岑陬ついに公主を妻とす」と
    つづけている。この「ついに」の一語はすこぶる含蓄に富んでいるように思われる。/
    ・・・
タグ:歴史 中国 列伝
コメント(8) 
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コメント 8

tai-yama

お母さんだったのに、ある日から妻になると言う・・・・
年齢差があると、ある意味どちらにもキツイかも。
でも、歳上も良いな(笑)。
by tai-yama (2022-06-19 22:54) 

ナベちはる

本来はしたくもない結婚をせざるをえないのは、悲しく辛いですよねorz

そこで好きな人が「誰も来ないほど遠いところまで一緒に逃げよう!」なんてなればかっこいいのですが…(^^;)
by ナベちはる (2022-06-20 00:37) 

yokomi

公主を送ること...とは昨年学んだところですが、実際はそんなこともあったのですねぇ(>_<)
by yokomi (2022-06-20 02:35) 

middrinn

岑陬にとっては、細君はお母さんではなく、おばあさんですよ(^_^;)
tai-yama様、年老いた昆莫に嫁いだから年齢的にはいいかも(^_^;)
by middrinn (2022-06-20 05:59) 

middrinn

政略結婚を嫌がって駆け落ちするのは、
ナベちはる様、素敵ですよね(^_^;)
by middrinn (2022-06-20 06:25) 

middrinn

烏孫公主(解憂)の方はアジャストして
yokomi様、凄い活躍をしますよ(^_^;)
by middrinn (2022-06-20 06:32) 

df233285

これは参考になりましたね。
なるほど。武帝の頃に前漢王朝期の中国人は、楽浪郡
の更に東へ行って、鉄を集めて奉じると、対匈奴戦用に
武具が大量に必要だったので、重く扱われた時代だった
のですね。日本の九州の大分県の中津市付近にまで、船で
鉄鉱石掘りに来ていた疑いも、或いは有るのでしょうよね。
烏孫国まで長安から行く人間が、大分県に来られないはず
も無しかも。
by df233285 (2022-06-20 08:11) 

middrinn

烏孫より遠くの国にも行ったようですね(^_^;)
鉄器の出土状況的には、博多湾や筑後川沿いが
多いですけど、その産地はどこでしょう(^_^;)
by middrinn (2022-06-20 08:46) 

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