文は人なりと言うように政治家の文章からもその為人や性格を読み取ることは出来る( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
角さんの『私の履歴書』の文章を小林秀雄が褒めた由、今の政治家は本人が書いてるのかな(@_@;)

【読んだ本】

鈴木眞哉『戦国武将のゴシップ記事』(PHP新書,2009)

本書は「・・・常陸守、上総守、上野守だけはいなかった。それはなぜかというと、この三か国は、
慣例的に親王(天皇の皇子たち)の任国とされていたからである。」(本書159~160頁)とした上で
『氷川清話』の冒頭の「松平上総守」は「・・・[『氷川清話』の]編者の吉本襄の勘違い・・・」
(本書161頁)で松平上総介を誤記したものとしてるけど、和田英松(所功校訂)『新訂 官職要解』
(講談社学術文庫,1983)にも、「守[かみ]がいないときは介[すけ]が国の吏務を総裁したので
ある。ことに上総、常陸、上野の三ヵ国は、親王の任国であるから、いつでも介がもっぱら政務を
とっていた。・・・それゆえ、まるで守と同様で、ちょうど太宰大弐を帥といったのと同じように、
この三国の介をば守ともいったのである。」とあるように「松平上総守」でも間違いではないようだ
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-18 )〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)を調べてたら、
寛仁元年(1017年)10月21日条の「上野守(藤原)定輔が、馬十疋を献上してきた。・・・」云々が
目に留まり、国際日本文化研究センター「摂関期古記録データベース」で「上野守」を検索したら、
『小右記』が1件(永延元年[987年]6月27日条の「前加賀守・美濃守・前上野守等、来訪す。」)、
『御堂関白記』が7件(①長保元年[999年]9月2日条の「上野守[源]頼信、馬五疋を奉る。」、②
寛弘元年[1004年]9月27日条の「上野守[平]重義、馬三疋を献ず。」、③寛弘2年[1005年]8月23
日条の「上野守[橘]忠範、参上す。」、④寛弘3年[1006年]6月13日条の「小除目有り。上野守を
任ず。平維衡。」、⑤長和元年[1012年]閏10月17日条の「上野守[平]維叙、馬十疋を献ず。」、
⑥長和4年[1015年]8月27日条の「上野守[平]維叙、辞退す。」、⑦寛仁元年[1017年]10月21日
条の「上野守[藤原]定輔、馬十疋を献ず。」)、『左経記』が2件(①寛仁4年[1020年]6月4日条
の「右衛門尉平時通、上野守定輔の迎へに粟津に臨むに、」、②万寿3年[1026年]12月13日条の「侍
所六十前〈丹後守親方・上野守家業。〉」)、『春記』1件(永承3年[1048年]正月(日不明)条の
「前上野守成経、篳篥。」)、『定家朝臣記』が1件(康平4年[1061年]9月21日条の「陪従〈前上野
守成隆朝臣」)の計12件がヒットしたぞ( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ なお、上記の『小右記』の永延元年(987年)
6月27日条だが、倉本一宏編『現代語訳 小右記1 三代の蔵人頭』(吉川弘文館,2015)266頁でも「前
加賀守・美濃守・前上野守が来訪した。・・・」となっており、「前上野守」が誰かは不明(@_@;)

「上野介」の検索結果は、『権記』が6件(①長徳4年[998年]4月2日条の「右兵衛佐時方・前上野介
[藤原]時貞等朝臣、来たり、雑事を示す。」、②長保2年[1000年]11月3日条の「偏へに身命を全
うせんが為、恥を忘れ歩行し□□上野介[藤原]為盛の宅の南に□□重尹の車、推し帰り、来たり向
かふ。」、③長保3年[1001年]2月26日条の「上野介[平]重義・尾張守匡衡朝臣等、罷申。」、④
寛弘2年[1005年]4月14日条の「陣定有り。大弐・上野介[橘]忠範・加賀守兼親・因幡守行平等の
申請せる事なり。」、⑤寛弘2年[1005年]4月20日条の「次いで一条〈上野介[橘]忠範。〉に見物
所有り。」、⑥寛弘3年[1006年]6月13日条の「上野介に[平]維衡を任ず。」)、『小右記』が6件
(①長和4年[1015年]8月27日条の「小除目、陣に於いて行なふ。図書頭有隣・中務丞源懐信〈蔵人。
〉・木工允大中臣頼成・上野介定輔。」、②長和5年(1016年)5月15日条の「前上野介維叙、今日、
出家すべき由、昨日、摂政殿に申さしむ」、③寛仁元年(1017年)10月22日条の「昨日、上野介定輔、
馬十疋を大殿に貢ず。」、④寛仁元年(1017年)11月11日条の「近江守惟憲・上野介定輔、彼の殿に
在り。」、⑤寛仁3年(1019年)12月15日条の「上野介定輔の勘出文を下すべき事、懇切の気有り」、
⑥万寿2年(1025年)9月26日条の「上野介家業、手作布百端を志す。」)、『左経記』の1件(長元4
年(1031年)3月22日条の「試楽、終る後、上野介家業の解由を下さんと欲す。」の計13件(⌒~⌒)

以上、上野介を「上野守」と多く記してたのは藤原道長の日記『御堂関白記』、「上野介」と正確に
記してたのは藤原行成の日記『権記』と藤原実資の日記『小右記』(^_^;) 道長は如何にも細かいこと
など気にしない長者的な性格っぽく、行成と実資は几帳面生真面目な官僚・能吏といった感じ(^_^;)

・亀井静香『永田町動物園 日本をダメにした101人』(講談社,2021)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-16

・海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(新潮新書,2010)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2017-03-04

・松尾尊兊編『石橋湛山評論集』(岩波文庫,1984)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-15

・北門政士『田中角栄大軍団101人 その戦略と全貌』(山手書房,1981)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2017-11-16