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220128読んだ本

火の無い所に煙を立てちゃう探偵もいるし、日本の人口減少はコナンくんの所為・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

【読んだ本】

森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)

君臣の感動的なシーンが本書287頁の延暦22年(803年)3月庚辰(29日)条に出てる(´;ω;`)ウッ…

    遣唐大使藤原葛野麻呂[かどのまろ]・副使石川道益[みちます]に餞[はなむけ]の
    宴を賜わった。宴の設営はすべて中国風で、酒宴もたけなわになると、天皇は葛野麻呂
    を自分の席の側に喚[よ]んで酒を賜い、次の和歌を詠んだ。

     この酒はおおにはあらずたいらかにかえりきませと斎[いわ]いたる酒

      (この酒はただの酒ではない。無事帰国できるよう祈りを込めた酒である)

    葛野麻呂は雨のような涕[なみだ]を流し、宴席に参列している群臣らもみな涕を流した。
    葛野麻呂に天皇の着用する被[ふすま]三領・天皇の着用する衣一襲[ひとかさね]・
    金二百両、道益に天皇の着用する衣一襲・金百五十両を下賜した。

例えば、山背から山城へと国名を改めた際に近江国の天智天皇の都だった古津も大津と改称した史実
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-23 )に見られるように、桓武天皇は
天智系であることを意識していたとされるが、〈この話はあの天平の昔、藤原宇合を西海道節度使に
おくる時に、聖武天皇がしたしく酒をたまわって、御製をおよみになったことと好一対の話である。
そうして、聖武天皇の「をす国のとほのみかどに」(万葉九七三)の御製の方はうたわれたものかど
うかよくわからないけれども、桓武天皇の御製はおそらく和琴の伴奏によって、天皇みずからおうた
いになったものであろう。〉と小沢正夫『古今集の世界 増補版』(塙選書,1976年)に( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

ところが、延暦22年(803年)4月癸卯(23日)条には、「今月十四日に難波津(大阪市中央区心斎橋
のあたり)で乗船し、十六日に出航しました。(略)時に大雨と強風に襲われ、碇[いかり]が機能
せず、午後一時頃風向きが変わり、船が壊れてしまいました。(略)明経請益大学助教豊村家長は
ついに水没して行方不明となり、他に溺れた者は数えきれないほどです。(略)」(本書290頁)と、
藤原葛野麻呂らから言上があったことが記されているヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ なお、黒板伸夫&森田悌(編)
『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)239頁の頭注は「遣唐使らが四月十四日に難波津より進発
したが、・・・」となってて不正確(-"-) 延暦22年(803年)5月辛未(22日)条には「遣唐使が節刀
を返還した。船が破損して渡海することができなくなったためである。」(本書292頁)とあり、藤原
葛野麻呂が「無事帰国」することが出来たのは桓武天皇の歌の力であり歌徳説話・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

事故の言上があった延暦22年(803年)4月癸卯(23日)の条には「・・・/そこで、右衛士少志日下
三方を派遣して急いで調査を行い、詳細を報告させることにした。」(本書290頁)とあり、5日後の
延暦22年(803年)4月戊申(28日)条にも「典薬頭藤原朝臣貞嗣・造宮大工物部建麻呂らを派遣して
遣唐使船と破損した物品を調査させた。」(本書291頁)とあるけど、再出港が可能かどうか調べたの
かな(´・_・`) 怪しいところ、事件の疑いがあったからだったり(@_@;) んなことを考えちゃうのは、
海音寺潮五郎『悪人列伝 古代篇』(文春文庫,2006)の「藤原薬子」が上記酒宴について次のような
推論を述べているから( ̄◇ ̄;)

    ・・・/当時の遣唐使はいのちがけの任務であった。葛野麻呂が泣いたのは、
    天皇の恩愛の渥[あつ]さに感激してのことではなく、悲哀のあまりであった
    ろうし、群臣の涙は同情の涙であったろう。天皇は葛野麻呂に罪をつぐなわせる
    ために、このいのちがけの仕事をあてがったのではないかと思う。/・・・

藤原葛野麻呂の「罪」とは何か(@_@;) 大同5年=弘仁元年(810年)の「薬子の変」で平城太上天皇
と行動をともにした藤原葛野麻呂を赦した嵯峨天皇の詔(弘仁元年[810年]9月庚戌[13日]条)の
「・・・又中納言藤原朝臣葛野麻呂は、悪しき行[しわざ]の首[ひと]藤原薬子が姻媾[むつび]
の中なれば、罪重く有るべし。・・・」(前掲『訳注日本史料 日本後紀』523頁)という件の「姻媾
の中」を海音寺潮五郎は「男女としての関係がある意味」と解して、次のような推論を展開( ̄◇ ̄;)

    ・・・薬子が[皇太子の]安殿[親王=平城天皇]との関係を黙過してもらうために、
    葛野麻呂に膳をすえて箸をとらせたのではなかろうか。[当時の葛野麻呂の職である]
    東宮大夫は東宮御所の長官だ。娘のご亭主的立場にある太子と通じているような女を
    黙過してはならないのである。薬子としては、色じかけでこれを骨ぬきにする必要が
    あろうというものだ。・・・/・・・/こんな次第だから、桓武が怒って薬子を東宮
    から追い出したのは、[延暦]十八年の四月少し前であろう。葛野麻呂を東宮大夫から
    免じて太宰大弐として九州に赴任させたのも、処罰の意味があろう。葛野麻呂の後任
    として薬子の夫[藤原]縄主を東宮大夫にすえたのは、薬子を東宮御所に近づくことを
    監視させる意味があったのではないかと、ぼくは見るのだ。縄主はこの時から八年、
    延暦二十五年に至るまでずっと東宮大夫の職にある。桓武は二十五年の三月に死んで
    いるのだから、自分の生きている間はきびしく監視させたわけだ。/・・・

「姻媾の中」については、前掲『訳注日本史料 日本後紀』523頁の頭注でも「姻媾には親戚の意味が
あるが、ここは藤原葛野麻呂が藤原薬子と情交関係にあったことをいう。」とされており、弘仁元年
(810年)9月庚戌(13日)条の当該件を森田悌(全現代語訳)『日本後紀(中)』(講談社学術文庫,
2006)180頁も「・・・また、中納言藤原朝臣葛野麻呂は悪行の首魁である藤原薬子と情交関係にあった
ので、罪は重いが、多入鹿らが、受け入れられなかったものの太上天皇を懇切に諫めたというので、
処罰しないことにする。・・・」と訳してて、海音寺潮五郎の解釈通りだけど、上記の推論には疑問
もある(@_@;) なぜなら、大同元年(806年)正月癸巳(28日)条に「・・・参議正四位下菅野朝臣
真道を兼太宰大弐に任じ、・・・」(本書387頁)、大同元年(806年)2月庚戌(16日)条に「・・・
従三位藤原朝臣葛野麻呂を春宮大夫に任じ、・・・」(本書392頁)とあり、桓武天皇崩御(大同元年
[806年]3月辛巳[17日]条に「・・・/しばらくして桓武天皇が内裏正殿で死去した。行年七十。
・・・」[本書397頁]と)の前に藤原葛野麻呂を東宮大夫に戻す人事が行なわれているから(@_@;)

海音寺潮五郎は書いてないけど、藤原葛野麻呂は再び遣唐大使に任命されて、使命を果たしたから、
「罪をつぐな」った、ということだったりして(^_^;) とまれ、つい笑ってしまったのは、その二度目
の遣唐大使の餞の宴が記載されている延暦23年(804年)3月庚子(25日)条(本書314頁)(^_^;)

    ・・・/本日遣唐大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂・副使従五位上石川朝臣道益ら両人を
    朝廷へ喚び、宮中で餞の宴を賜わった。天皇は座の側に召して、真心のこもった言葉を
    賜わり、特別に恩賜の酒一杯と立派な琴一面を下賜した。宴、たけなわとなり、
    くつろいだなかで音楽を奏し、身分に応じて物を下賜した。/

今回は桓武天皇が和歌を詠まなかったのは、一年前には「無事帰国できるよう」と詠んだため、そう
ならなかったら大変と天皇側近が秘かに手を回して船に穴を開けてしまったから・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
タグ:歴史 和歌 列伝
コメント(4) 
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コメント 4

ナベちはる

日本の人口減少、止まらないですね…
by ナベちはる (2022-01-29 02:26) 

middrinn

みんな殺されて最後はコナンくんだけにヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
by middrinn (2022-01-29 07:09) 

tai-yama

桓武天皇のお力がなければ船と共に海の藻屑と・・・
難破船にかけて、薬子をナンパしたとしたかった。
でも、時系列が(残念)。
by tai-yama (2022-01-29 19:02) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 銀の座布団1枚 ♪
これで金と銀の座布団を獲得しました(〃'∇'〃)
by middrinn (2022-01-29 19:19) 

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