220110読んだ本
よく表示される広告、今日のは美女がドヤ顔で「タバコ辞めてこっち吸うわ」〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
日本語が不自由な外国人が制作してるのかな(@_@;) そもそも煙草を喫う人は頭が・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
【読んだ本】
目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレクション,2007)所蔵本
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)77~78頁の延暦14年(795年)夏
4月戊申(11日)の条の現代語訳を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
曲宴が催された。[桓武]天皇が次の古歌を誦[しょう]した。
いにしえの野中古道[のなかふるみち]あらためばあらたまらんや野中古道
(人が往来している野中の古道は、たやすく変えることはできない。
同様に、古くからの扈従者は大切にしなければならない)
天皇は尚侍[ないしのかみ]従三位百済王明信に勅して応答の歌を作ることを
求めたが、作ることができなかった。そこで、天皇は自ら明信に代わって次の
和歌を詠んだ。
きみこそは忘れたるらめにぎ珠のたわやめ我は常の白珠
(陛下は私のことを忘れてしまっているかもしれませんが、私は常に光の
変わらない白珠のような状態でいます)
この応答歌に侍臣は万歳を叫んだ。
使えぬ(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-07 )黒板伸夫&森田悌(編)
『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)も流石に「古歌」に付された頭注で「一首の意は、人が
往来してきている野中の古道はたやすく変えることはできない、ということで、古くからの扈従者を
大切にする、という含意。明信を古道に喩えている。」とし(同書49頁)、「天皇自ら代りて和して
曰く…」の頭注で「一首の意は、陛下は私のことを忘れてしまっているかもしれないが、私は常に光
の変わらない白たまのような状態でおります、ということで、明信を古道に喩えた初めの古歌に応答
する内容となっている。」(同書50頁)として、「野中古道」とは「百済王明信」(藤原継縄の妻)
を指すことは指摘してる(^_^;) 「百済王明信」の補注も「・・・桓武天皇の愛寵著しく、延暦十四年
四月条に曲宴の席で天皇が古歌を誦したのに対して誦和することを求められたができず、天皇が自ら
代和したことがみえる。・・・」(同書1079頁)とあるだけで、チト奥歯に物が挟まったような感じ
がしないでもない(^_^;) 作家なら得意の想像力を働かせて史実のはっきりないところも補ってしまう
わけで(モチ困ったことである)、目崎徳衛も文化史を主とする歴史学の研究者ではあるが、実作者
(俳人で俳句雑誌も主宰の由)でもあるためか、本書は次のような叙述に(^_^;)
・・・/延暦十四年(七九五)四月戊申の曲宴に、桓武天皇は後宮の女官を取り締まる
尚侍百済王明信に古歌をもって、
古への野中古道 あらためばあらたまらむや 野中古道
と問いかけた。「野中古道」は年とった明信を指し、「もう一度若返って、さて私と
どうかな」と、誘いかけたわけである。はにかんで返歌に途惑う明信に、天皇は
「では教えてあげよう、こう答えればいいのだよ」と、
きみこそは忘れたるらめ にぎたまのたわやめわれは常の白玉
と詠んだ。「陛下はお忘れでしょうが、女の私は永遠に若いのですわ、どうぞどうぞ」
という意味だ。居並ぶ侍臣はこの即興をはやして「万歳」を高唱したという(『類聚
国史』)。尚侍明信は若いころ天皇の寝に侍した女性であるらしく、しかも当時は
右大臣藤原継縄の妻となり、夫妻そろって天皇の身辺に密着していた。・・・
本書の別稿の「尚侍・尚蔵については、その在任中に天皇の寵愛を受けた者や、すでに寵愛を得た後
これに任じられた者が多いこと、および後宮に大きな権勢をふるう者の出たことを指摘しなければな
らない。前者には、嵯峨朝の尚侍百済王慶命や淳和朝の尚蔵緒継女王などが知られ、後者には、前述
の[藤原]薬子や宇多天皇擁立に奔走した尚侍藤原淑子(基経の妹[←杉本苑子『山河寂寥 ある女官
の生涯』[文春文庫,2002]の主人公])などが知られる。」という指摘とリンクしているかと(^_^;)
気になるのは、和田英松(所功校訂)『新訂 官職要解』(講談社学術文庫,1983)の尚侍の次の説明
だが、尚侍百済王明信は上記の通り「従三位」なんだよね(@_@;)
・・・/位階相当は、もと従五位であったのを、平城天皇の御代、従三位にのぼせて
尚侍薬子を御寵愛なされてから、尚侍が御寝所に伺候するようになってだんだん品位
がのぼり、のちには大臣の女を尚侍としたのが多い。・・・
石村貞吉(嵐義人校訂)『有職故実(上)』(講談社学術文庫,1987)にも同様の記述がある(@_@;)
・・・尚侍は従五位に、・・・准ぜられたが、平城天皇(51)大同二年(八〇七)に、
任が重いのに、准位が卑しく禄賜が少ないというので、尚侍を従三位に、・・・准ずる
ことにした。・・・/尚侍は、「ないしのかみ」、また字音のままに、「しやうじ
[しょうじ]」ともいう。婦人の官職中、最も重んぜられたものであるが、平城天皇
(51)が、尚侍藤原薬子を鍾愛せられたことがあってから、御寝に侍する者ようやく
多く、自らその位地[ママ]も向上し、摂政・大臣の女の任ぜられるのも多くなり、
・・・
目崎徳衛は「・・・奈良時代末に尚侍の位階は・・・三位相当まで引き上げられ、・・・」(@_@;)
日本語が不自由な外国人が制作してるのかな(@_@;) そもそも煙草を喫う人は頭が・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
【読んだ本】
目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレクション,2007)所蔵本
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)77~78頁の延暦14年(795年)夏
4月戊申(11日)の条の現代語訳を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
曲宴が催された。[桓武]天皇が次の古歌を誦[しょう]した。
いにしえの野中古道[のなかふるみち]あらためばあらたまらんや野中古道
(人が往来している野中の古道は、たやすく変えることはできない。
同様に、古くからの扈従者は大切にしなければならない)
天皇は尚侍[ないしのかみ]従三位百済王明信に勅して応答の歌を作ることを
求めたが、作ることができなかった。そこで、天皇は自ら明信に代わって次の
和歌を詠んだ。
きみこそは忘れたるらめにぎ珠のたわやめ我は常の白珠
(陛下は私のことを忘れてしまっているかもしれませんが、私は常に光の
変わらない白珠のような状態でいます)
この応答歌に侍臣は万歳を叫んだ。
使えぬ(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-07 )黒板伸夫&森田悌(編)
『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)も流石に「古歌」に付された頭注で「一首の意は、人が
往来してきている野中の古道はたやすく変えることはできない、ということで、古くからの扈従者を
大切にする、という含意。明信を古道に喩えている。」とし(同書49頁)、「天皇自ら代りて和して
曰く…」の頭注で「一首の意は、陛下は私のことを忘れてしまっているかもしれないが、私は常に光
の変わらない白たまのような状態でおります、ということで、明信を古道に喩えた初めの古歌に応答
する内容となっている。」(同書50頁)として、「野中古道」とは「百済王明信」(藤原継縄の妻)
を指すことは指摘してる(^_^;) 「百済王明信」の補注も「・・・桓武天皇の愛寵著しく、延暦十四年
四月条に曲宴の席で天皇が古歌を誦したのに対して誦和することを求められたができず、天皇が自ら
代和したことがみえる。・・・」(同書1079頁)とあるだけで、チト奥歯に物が挟まったような感じ
がしないでもない(^_^;) 作家なら得意の想像力を働かせて史実のはっきりないところも補ってしまう
わけで(モチ困ったことである)、目崎徳衛も文化史を主とする歴史学の研究者ではあるが、実作者
(俳人で俳句雑誌も主宰の由)でもあるためか、本書は次のような叙述に(^_^;)
・・・/延暦十四年(七九五)四月戊申の曲宴に、桓武天皇は後宮の女官を取り締まる
尚侍百済王明信に古歌をもって、
古への野中古道 あらためばあらたまらむや 野中古道
と問いかけた。「野中古道」は年とった明信を指し、「もう一度若返って、さて私と
どうかな」と、誘いかけたわけである。はにかんで返歌に途惑う明信に、天皇は
「では教えてあげよう、こう答えればいいのだよ」と、
きみこそは忘れたるらめ にぎたまのたわやめわれは常の白玉
と詠んだ。「陛下はお忘れでしょうが、女の私は永遠に若いのですわ、どうぞどうぞ」
という意味だ。居並ぶ侍臣はこの即興をはやして「万歳」を高唱したという(『類聚
国史』)。尚侍明信は若いころ天皇の寝に侍した女性であるらしく、しかも当時は
右大臣藤原継縄の妻となり、夫妻そろって天皇の身辺に密着していた。・・・
本書の別稿の「尚侍・尚蔵については、その在任中に天皇の寵愛を受けた者や、すでに寵愛を得た後
これに任じられた者が多いこと、および後宮に大きな権勢をふるう者の出たことを指摘しなければな
らない。前者には、嵯峨朝の尚侍百済王慶命や淳和朝の尚蔵緒継女王などが知られ、後者には、前述
の[藤原]薬子や宇多天皇擁立に奔走した尚侍藤原淑子(基経の妹[←杉本苑子『山河寂寥 ある女官
の生涯』[文春文庫,2002]の主人公])などが知られる。」という指摘とリンクしているかと(^_^;)
気になるのは、和田英松(所功校訂)『新訂 官職要解』(講談社学術文庫,1983)の尚侍の次の説明
だが、尚侍百済王明信は上記の通り「従三位」なんだよね(@_@;)
・・・/位階相当は、もと従五位であったのを、平城天皇の御代、従三位にのぼせて
尚侍薬子を御寵愛なされてから、尚侍が御寝所に伺候するようになってだんだん品位
がのぼり、のちには大臣の女を尚侍としたのが多い。・・・
石村貞吉(嵐義人校訂)『有職故実(上)』(講談社学術文庫,1987)にも同様の記述がある(@_@;)
・・・尚侍は従五位に、・・・准ぜられたが、平城天皇(51)大同二年(八〇七)に、
任が重いのに、准位が卑しく禄賜が少ないというので、尚侍を従三位に、・・・准ずる
ことにした。・・・/尚侍は、「ないしのかみ」、また字音のままに、「しやうじ
[しょうじ]」ともいう。婦人の官職中、最も重んぜられたものであるが、平城天皇
(51)が、尚侍藤原薬子を鍾愛せられたことがあってから、御寝に侍する者ようやく
多く、自らその位地[ママ]も向上し、摂政・大臣の女の任ぜられるのも多くなり、
・・・
目崎徳衛は「・・・奈良時代末に尚侍の位階は・・・三位相当まで引き上げられ、・・・」(@_@;)
タグ:歴史
百済王明信は白村江の戦いで活躍した豊璋の子孫みたいで・・・
(勝っていたら)百済国の姫が女官とは。しかも誘っている(笑)。
チェ・ジウやイ・ヨンエもしくはイ・ボミみたいな人だったのかも。
by tai-yama (2022-01-10 22:41)
「タバコ辞めてこっち吸うわ」…"こっち"も害があるものだったりしたら嫌ですね(^^;A
by ナベちはる (2022-01-11 00:40)
百済王氏は、百済王教法が桓武天皇の、
tai-yama様、女御になってます(^_^;)
by middrinn (2022-01-11 07:14)
電子タバコの広告のようですけど、その辺は、
ナベちはる様、どうなんでしょうね(^_^;)
by middrinn (2022-01-11 07:22)
時代の前後関係が、勉強不足で私には謎ですが。なるほど。
「啄木鳥」の原因は中将姫ではなくて、百済王明信でしたか?
by df233285 (2022-01-11 09:04)
目崎徳衛も、律令制では后妃の定員は決まっているのに
桓武天皇は「精力絶倫」で后妃の他にも「多くの女性を
寝所に侍らせたようである。」としており、上記曲宴の
2年後の啄木鳥の一件も別の女性かもしれません(^_^;)
by middrinn (2022-01-11 09:44)
middrinnさん
ご指摘ありがとうございます、何かと混じって間違えて
しまいました。_(._.)_
by caterham_7 (2022-01-11 19:40)
何度か通り抜けたことのある神社だったのですが、
軍艦多摩戦没者慰霊碑は知らなかったです(^_^;)
by middrinn (2022-01-11 19:45)