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220119読んだ本

同時代の評価、後代あるいは現代における評価が異なるなら同時代の評価基準でも吟味せにゃv( ̄∇ ̄)

【読んだ本】

三木紀人(全訳注)『徒然草(一)』(講談社学術文庫,1979)所蔵本

昨日購入して表紙カヴァーの内容紹介文を何気な~く見てたら、「『徒然草』は鎌倉末期の草庵歌人
兼好法師の随筆。」という冒頭の一文の「歌人」に目が留まった(^_^;) 「兼好は今日ではもっぱら
『徒然草』作者として知られるが、生存時の彼は歌人で、二条為世門下のいわゆる和歌四天王(四人
の遁世歌人。頓阿・慶運・浄弁と兼好)の一人であった。・・・/兼好の歌人的な発想・表現は本書
のかなりの範囲に見え隠れするが、表だって歌論的な主題を取り上げたのは、この段だけである。」
と解説されている第14段の現代語訳の一部を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/最近の歌は、部分的におもしろく表現できていると思われるものはあるが、
    古い歌のように、いわくいいがたい感じに、言外にしみじみとした余情が残るものはない。
    [紀]貫之が「糸によるものならなくに」と歌ったのは、『古今集』中の歌屑とか
    言い伝えているが、今の世の人が詠みこなせる歌とは思われない。そのころの歌には、
    歌の調子といい、用語といい、この種の歌が実に多い。この歌に限って歌屑と評された
    理由がわからない。なお、この貫之の歌を、『源氏物語』には「ものとはなしに」という
    かたちで引いている。/・・・

本書は「歌屑[うたくづ]」を〈最低の歌。「糸による」の歌を『古今集』の歌くずとする言い伝え
は不明。〉と語釈してるし、奥村恆哉(校注)『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社,1978)も
頭注で『徒然草』の上記件を引用した上で「この歌[=糸によるものならなくに別れ路り心ぼそくも
思ほゆるかな]を『古今集』中の駄作とする伝えの出所は不明であるが、・・・」としてる( ̄◇ ̄;)

片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』(講談社学術文庫,2019)は同歌「糸に撚る物ならなくに別路の
心細くも思ほゆるかな」を、「糸として撚ることのできるものではなく、寄るどころか別れて離れて
ゆくものであるのに、別れ路は細い片糸のように心細くも思われることであるよ」と訳した上で次の
ように指摘する(⌒~⌒)

    /「糸に撚る」の「撚る」に「寄る」を掛けていると見なければ、この歌の真意は
    わからない。「別路[わかれぢ]」は「別れるもの」「離れるもの」であって、
    [片糸を撚り合わせて作る]糸のように「撚る(寄る)もの」ではなく、むしろ
    正反対であるのに、糸が「細い」のと同じく「心細く」思われることであるよ……
    と言っているのである。駄洒落と言えば駄洒落だが、「心細い」ということを
    口にするのを照れるゆえに、韜晦して言っているのである。『毘沙門堂旧蔵本
    古今集注』が「此歌、貫之詠中には可謂下品、先達多非之」と言い、宗祇の
    『両度聞書』も「余情なき歌也」と言い、兼好の『徒然草』にも「・・・」と
    言っているように、評判は決してよくない。兼好は弁護しているようにも見えるが、
    他と比べて言っているだけであって、誉めているわけではない。しかし、昔も今も、
    私がここに述べた「韜晦」という観点から批評したものがないのは残念である。
    実際、『古今集』の撰者たちの歌は、この「韜晦」のポーズを前提にしなければ
    理解できない場合が多い。この点については、一番歌の[在原]元方の歌についても
    述べたので参照されたい。/

はっきり「心細くも」と詠んでいるのに〈「心細い」ということを口にするのを照れるゆえに、韜晦
して言っているのである〉とはイミフだし、兼好は「誉めている」かと(@_@;) 「歌屑」の出所は
結局不明も、この歌が「歌屑」なら「『古今集』の撰者たちの歌」、つまり、『古今和歌集』入集歌
の多くが「歌屑」になってしまうわけだ( ̄◇ ̄;) 「歌屑」の出所は、正岡子規・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
となると、「そのころの歌には、・・・この種の歌が実に多い。この歌に限って歌屑と評された理由
がわからない。」という兼好の指摘は当を得たものだったということに〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

この「糸による」の歌は『拾遺和歌集』にも重出している点からも「歌屑」との評は疑問だけれど、
久曾神昇(全訳注)『古今和歌集(二)』(講談社学術文庫,1982)は「別れ路の心細さを細い糸に
たとえた理知的技巧であるが、技巧に堕した歌である。」「兼好は弁護しているが、歌屑との非難も
理由があるように思われる。」と酷評し、子規みたい(゚ロ゚;) この『徒然草』の第14段は同じく出典は
不明も「歌屑」と言い伝えられているという『新古今和歌集』入集歌も取り上げているが、窪田空穂
『完本新古今和歌集評釈 上巻』(東京堂出版,1964)は「とにかく、歌屑とはいうべきではない。」
としてるし、久保田淳『新古今和歌集全注釈 二』(角川学芸出版,2011)もまた「・・・これを歌屑
というのは酷である。」としており、な~んか対照的な感じがしたな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
タグ:古典 随筆 和歌
コメント(8) 
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コメント 8

tai-yama

正岡子規は兼好のこの世間の評価文を読んで大喜びした気が(笑)。
「うひょー、古今集は屑だ~」。万葉集嫌いな人には逆に高評価
だったり。
by tai-yama (2022-01-19 23:18) 

yokomi

「歌は世につれ世は歌につれ」。人が変わっても、時代が変わっても基準は違ってくるのでしょうね。要吟味。ギンミチョー(^_^;)
by yokomi (2022-01-20 01:15) 

ナベちはる

当時の評価と今の評価、同じにしてはいけませんよね。
当時はダメでも今は良くなったりその逆だったり、はたまた変わらなかったりするかもしれませんが…(^^;
by ナベちはる (2022-01-20 01:32) 

middrinn

正岡子規が『徒然草』の「歌屑」に言及してるか調べないと(^_^;)
tai-yama様、子規の一派は教養が無いから読んでないかも(^_^;)
by middrinn (2022-01-20 07:35) 

middrinn

評価基準が変わっているわけですから、
yokomi様、当時の評価を理解するには、
当時の評価基準で考えないとね(^_^;)
by middrinn (2022-01-20 07:44) 

middrinn

時代によって評価は変わることがありますからね(^_^;)
ナベちはる様、何故そのような評価になったのか、その
所以を知ることも大切なのではないかと思います(^_^;)
by middrinn (2022-01-20 07:56) 

df233285

本日朝、ありきたりの糸屑のような調整ですが。
”usbのリムーバブルドライブの自動再生”の
設定をoffにしました。win10買っても、
ms-dos時代のファイラー操作に慣れて
いる方は、ファイルロストのリスクを未然に防ぐ
ため、必ずそうした方が良いですよ~。win7pc
では、「勝手にやっている」の感覚でしたが・・・。
win10はファイル管理が苦手なよう。ときどき
中国台湾人が作成した、漢文のお知らせメッセージが
出るのは、私のpcのwindows10だけかも
しれないですが。最後の点に関しては、このサイトに
出入り等して、漢文に親しんでいて良かったと思う。
by df233285 (2022-01-20 08:46) 

middrinn

漢文のメッセージが出るんですか( ̄◇ ̄;)
それは流石にちょっと困りますね(@_@;)
『日本後紀』の原文、漢字だらけですけど、
漢詩文(の語句)が混じってたりするので、
歴史学だけでなく、漢文学も知ってないと、
読み解けないことに気付きましたよ(^_^;)
by middrinn (2022-01-20 08:52) 

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