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211205読んだ本

読書の厄介なところは、女性が身に付けてた衣裳が目当てのフェチである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記13 道長女の不幸』(吉川弘文館,2021)

藤原定家が撰んでれば『小倉百人一首』もヨリ魅力的になったのにと小生などは思ってしまう面白い
和歌を詠んだ中原致時、犬養廉&平野由紀子&いさら会『笠間注釈叢刊18 後拾遺和歌集新釈 上巻』
(笠間書院,1996)に「『地下家伝』によると、天徳四年(九六〇)~寛弘八年(一〇一一)七月八日。
五二歳。・・・」とある(異伝あり)(⌒~⌒) 藤原実資は親しかったらしく、一緒に嵯峨へと赴いて
和歌を詠んだりもしてるのに(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-02 )、
その日記『小右記』の寛弘8年(1011年)7月8日条に中原致時死去を記してないのは同日に故一条院の
御葬送があり、そちらを詳述したからか(@_@;) 実資邸の「東隣」の故中原致時宅の焼亡は長和5年
(1016年)正月5日条にあるが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-04 )、
本書76~77頁から万寿元年(1024年)10月10日条を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

     十日、甲子。 盗人、故中原致時宅に入る/道長と会談、近親・家人の任官を請う/
            松尾・北野行幸行事/資平、着座

    諷誦を六角堂に修した。「去夜、盗人が故信濃守(中原)致時の宅〈東隣。〉に入った。
    ただ、□光および妻子の衣装を捜し取った。また、宿人[やどりびと]の男が矢に
    当たった。死ぬに及ばなかった」と云うことだ。(三善)為時を遣わして見舞わせた。
    (藤原)致行[むねゆき]朝臣が子細を申した。「母尼および女[むすめ]二人の
    表着[うわぎ]の衣だけを盗み取りました」ということだ。・・・

今回は実資もお見舞いの使いを出してるね(^_^;) 平安京の治安の悪さは指摘されているところだが、
本書90~91頁の万寿元年(1024年)10月21日条には宿泊者だか居候だかの犯行だったとある(@_@;)

     二十一日、乙亥。 季御読経行事弁、蝕穢により改替/中原致時宅に入った強盗を逮捕

    ・・・/「近ごろ東隣に入った強盗を、今日、捕えることができた。つまりこれは
    宿人であった」と云うことだ。

さて、気になるのは、強盗の被害が「母尼および女二人の表着の衣だけ」だったことである(@_@;)
倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)の寛仁元年(10
17年)5月27日条に〈代用倉に置いておいた金が、盗人のために取られた。「二千両ほどであった」と
いうことだ。〉とあることから、故中原致時宅には金目の物が無かったからと思われそうだが、倉本
一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(中)』(講談社学術文庫,2009)の寛弘8年(1011年)
12月8日条に「この夜、土御門第の贄殿に窃盗が入って来た。銀の提[ひさげ]を盗み取った。」、同
9日条にも「今夜も、土御門第に窃盗が入って来た。夜の裳、少々を盗んだ。夜分、また膳所から提を
盗んだ、」とあり、やはり「夜の裳」=衣裳も盗まれている(@_@;) 繁田信一『殴り合う貴族たち』
(角川ソフィア文庫,2008)には次の指摘がある(@_@;)

    ・・・/王朝時代の強盗の多くは、貴族層の人々の邸宅に押し入った場合、
    女性の身につけている衣裳を強奪した。例えば、『紫式部日記』が伝える
    ように、寛弘五年(一〇〇八)の大晦日、一条天皇の仮の御所となっていた
    一条院で強盗事件が起きたが、このとき、二人の女房が強盗に衣裳を奪われて
    裸にされている。また、『小右記』によれば、長徳三年(九九七)の四月
    二十五日に藤原朝経の住む「閑院」と呼ばれる邸宅に押し入った二人組の
    強盗も、女性たちの身体から「衣裳を剥ぎ取る」という行為に及んでいる。
    /・・・

衣裳は結構な金銭的利益を生むのかな(@_@;) 高取正男編『京女 そのなりわいの歴史』(中公新書,
1982)の西山恵子「織縫の女」(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-11-04
の次の件を読むと、京で生産された衣裳がポイントなのかも(@_@;) 貴族層、つまり「宮廷内で働く
官人の給与の大半が現物支給であったから、絹布も官人給与の大きな部分を占めて」いたわけだし、
当座の褒美・引き出物として与えられる「被け物」もたいてい衣服だし〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/このような[職人が織部司・縫殿寮等の官営工房を離れて自立化・専門職化
    していく]状況の中で、京の絹・綾や染が単に官営工房による宮廷内のもののみでなく、
    京都全体の産業として発展して、例えば、絹布で物資交換に用いられる際の差定として、
    「京絹」「国絹」などのランクがつけられるようになってくるのではないかと思われる。
    国絹というのは地方産の絹のことで、その中でも、各国の地方の工房で作られたものと、
    そうでないものには、大きな品質の差があったようである。/そして、それら「京絹」
    の担い手であった織手やそれを支えた女性の労働は貴重視され、また、京都全体の技術
    のレベルアップにもつながった。『今昔物語集』にある、播磨国にかどわかされた京の
    女性が裁縫をよくしたため土地の郡司に雇われたという話なども、裁縫という個人的
    技術にかかわる問題であるということは念頭におかねばならないが、京の女性の裁縫に
    ついての能力の高さ、ひいては、都の人の技術への高い評価ということを読みとれる
    のではないだろうか。縫殿寮には「京内婦女」を召して裁縫にあたらせたという話を
    前に述べたが、その伝統と、全国一の大都市であるということが、京の女性の織と染、
    裁縫についての見識を高めたのではないだろうか。/・・・
タグ:歴史
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

「夜の裳」=ネグリジェ。今も昔もあこがれの的っ!
着て楽しんだ強盗も居たかもしれない(笑)。
by tai-yama (2021-12-05 23:03) 

ナベちはる

本人や「家にある金目の物」ではなく衣装目当てとは、またユニークな(?)盗人もいたのですね(^_^;)
by ナベちはる (2021-12-06 01:00) 

middrinn

「裳」は下半身に着る物ですが、たとえ道長のでも、
tai-yama様は、着て楽しんだりしてヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
by middrinn (2021-12-06 07:16) 

middrinn

そーゆー趣味というわけでもなさそうで、当時はメチャ価値があったらしく
ナベちはる様、当時はソレがフツーだったようなので、驚きますね(^_^;)
by middrinn (2021-12-06 07:26) 

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