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211204読んだ本

読書の厄介なところは、何でもかんでも陰謀にしたがる人々である〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
自分はその陰謀の被害者だ~!と騒ぎ立てる人とかマジでヤバそう〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記7 後一条天皇即位』(吉川弘文館,2018)

藤原実資の日記『小右記』の長和5年(1016年)正月5日条を本書230~231頁の訳から( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

     五日、庚戌。 元日の宣命を発見/東隣の宅、焼亡

    ・・・/亥剋の頃、東隣の故(中原)致時朝臣の宅が焼亡した。はなはだ近々である。
    西北の風が吹き、火の恐れは無かった。左相府[藤原道長]は、二条の新造の家に
    馳せ向かわれた。(藤原)能通朝臣を遣わして、火が近々である事を見舞われた。
    春宮大夫[藤原斉信]と四条大納言([藤原]公任)から、使を遣わして書状が有った。
    右衛門督[藤原懐平]・新源中納言〈経(経房)。〉・左大弁〈道([源]道方)。〉
    ・修理大夫〈通([藤原]通任)。〉・右大弁〈朝([藤原]朝経)。〉が、来て
    見舞った。その他、殿上人が多く来た。

本書巻末の「付録」に「関係地図(平安京北半・北辺)」が載ってて、「焼亡」した故中原致時宅は
おそらく「⑰小野宮東町(実資)」の「東隣」で、「㉑二条第(道長)」の東北に位置と推測(@_@;)
二条第は倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)巻末の
「用語解説」に「二条第[にじょうてい」 藤原高子の御所であったが、後に藤原師輔から源俊賢に
伝えられた。寛仁元年[1017年]ごろ、道長が俊賢より譲り受け、自邸の一つとした。道長はこれを
女の威子に伝えたが、その崩後、藤原教通の所有に帰した。」という説明がされてる(@_@;) ただ、
「寛仁元年[1017年]ごろ」よりも前、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(中)』
(講談社学術文庫,2009)の長和2年(1013年)10月13日条に「二条第に到って、造営すべき有様を、
(菅原)文信と(伊香)豊高に指示した。」とあるし、長和4年(1015年)10月17日条以降は「二条第
に行って、造営を検分した。」という記述が次々と見付かるのだが(@_@;) その後、道長が「造営を
検分」する頻度がメチャ高くなるんだけど、長和5年(1016年)2月27日条に「二条第に移るべき日」
を「来月二十三日」と決めたからかな(直前の3月21日に「二条第移徒延引」)(^_^;) 斯くも道長は
「二条第造営」に御執心で故中原致時宅焼亡時にも「馳せ向かわれた」のに「長和5年(1016年)正月
5日」条が前掲『藤原道長「御堂関白記」(下)』に無い(^_^;) 藤原能通は道長の家司で、後に道長
の子の教通の家司となって、教通の「後見」役として(川端善明&荒木浩[校注]『新日本古典文学
大系41 古事談 続古事談』[岩波書店,2005])、「頼もしい者」(竹鼻績[全訳注]『今鏡(中)』
[講談社学術文庫,1984]の訳)と評された人物だが、実資邸にはこの能通を始めとして見舞いの客が
「多く来た」とあるけど、焼亡した故中原致時宅には来たのかチト気になるところではある(@_@;)
wikiには出てないけど、中原致時は長徳元年(995年)3月9日に政権交代の陰謀を防いだ功労者なので
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-02 )、この「焼亡」はソレを逆恨み
した連中による放火とか言い出す人がいたりして(^_^;) 平安京の治安についての論文とか誰か書いて
そうだけど、土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版→2004改版)も平安京の治安
の悪さには頁を割いてる(^_^;) 泣くよ被害者、平安京って感じだけど、同書は寛仁3年(1019年)の
「放火の流行」を「このような連日の放火は、放免のしわざだという評判が立った。放免というのは、
検非違使の最下級の手先であるが、これがじつは獄を出て来た前科者を使うならわしであった。」と
記している(@_@;) ちなみに、前掲『藤原道長「御堂関白記」(下)』の長和5年(1016年)9月24日
条には次の記述が(^_^;)

     二十四日、乙丑。 枇杷殿焼亡

    三条院の許に参った。退出した後、戌剋の頃、東の方角に火事が有った。
    驚いて見てみると、枇杷殿に当たっていた。そこで馳せ参った。西対が
    遺[のこ]っている間に、参り着いた。三条院と中宮は、同車なされて、
    南の近衛大路にいらっしゃった。そこで高倉第に移し奉った。この頃、
    雨が降った。人々が参った。女方も参った。丑剋の頃、女方と退出した。
    明日が固い物忌であるからである。私のことを宜しくないと思う人が
    有るのであろうか。連々、このような放火が有る。また、仁和寺の辺りも
    焼亡した。小宅五家が焼亡した。

故中原致時宅の焼亡には政治的背景があることを道長も認めているとか言い出す人いたりして(^_^;)
孔雀の所為(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-06 )・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
タグ:歴史
コメント(6) 
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コメント 6

ナベちはる

何かにつけて「アレは●●の陰謀だー」とか「私はあの陰謀の被害者だ」と言う人、怖く感じます…(◎_◎;A)
by ナベちはる (2021-12-05 01:11) 

middrinn

あーゆー人たちを見てると、自分はまともだなぁ~良かった!と実感しますね(^_^;)
by middrinn (2021-12-05 07:58) 

ネオ・アッキー

middrinnさんこんにちは。
陰謀の被害者だ・・・ と、騒ぎ立てる人に限って、実は、加害者だったりすることもあったりして...
by ネオ・アッキー (2021-12-05 16:41) 

middrinn

あるあるかと( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 特製実は、加害者だったり座布団1枚 ♪
by middrinn (2021-12-05 18:06) 

tai-yama

「被害者だ」たしかに「火害」を受けたとも言えたり(笑)。
by tai-yama (2021-12-05 22:58) 

middrinn

イマイチかなC= (-。- ) フゥー
by middrinn (2021-12-06 07:11) 

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