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210419読んだ本

読書の厄介なところは、結論ありきの恣意的な記述を読まされることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
自説に都合のいい訳文にしたがる監訳者に異議となえたら非常勤講師等を首になった過去ヽ(`д´ ヽ)
子供っぽい黒猫が毎夕道路で通行人に構ってもらってて昨夜つい構ってやると引っ掻かれ出血(^_^;)

【読んだ本】

倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)

本書の巻末の「用語解説」は「作文会[さくもんかい]」を次のように解説してる(473頁)(@_@;)

    散文である「筆」に対して、詩や賦などの韻文である漢詩を作る会合。主に翌朝、
    披講が行なわれる。一条朝には[ママ]道長主導で盛んに開かれた。

倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)から引くよ(⌒~⌒)

    ・・・/本間洋一氏によると、一条は村上天皇と並んで、王朝句題詩が形成され
    盛行する時期にあたり、詩文の興隆に大きく寄与したとのことである(「『類題
    古詩』(類聚句題抄)研究覚書」)。たしかに、一条はしばしば内裏において
    作文会を主催し、道長と並んで、王朝文化の外護者としての側面を持っていた。
    飯沼清子氏の集計によると、一条朝二十五年間に内裏において開かれた作文会は
    四十六回、特に長保・寛弘年間に四十四回で、道長邸で開かれた三十九回を
    上まわっている(「平安時代中期における作文の実態」)。/・・・

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)の「おわりに」
は、藤原道長を「作文好き」とし、「頻繁に主催している作文会は、自邸のみならず、内裏のものも
主導しているかのようである。」と記してる(@_@;) 「内裏のものも」一条天皇ではなく藤原道長が
「主導している」との推測に根拠はあるのかな(@_@;) 同書(全3冊)を読んだ限りでは、一条院の
崩御後には道長邸の作文会の開催数が減少してるから、道長は「漢詩がいたって好き」というよりも
一条朝の流行あるいは一条天皇の御趣味に付き合っていただけの可能性があるけど、暗数があるので
断定は出来ぬと前に指摘(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-19 )(^_^;)

     十二日。 道長第作文会/奝然に大宰府解文を見せる

    左大殿[ひだりのおとど](道長)より召しが有った。作文会によるものである。
    大内記(紀)斉名[ただな]朝臣が題を献上した。「寒花[かんか]を客の為に
    栽[う]えた」と〈心を以て韻とした。〉。文章博士(大江)匡衡朝臣が序を
    献上した。/・・・

     十二日。 道長第作文会

    夕方、左府[道長]の許に参った。作文会があるので、召しが有ったのである。
    題は、「池の氷は鏡に対するようである」と〈清を韻とした。〉。序は慶滋為政
    が作った。

本書92頁の長徳3年(997年)10月12日条の一部と同96頁の長徳3年(997年)12月12日条を引いたが、
倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)は、長徳元年
(995年)の次が長徳4年(998年)ゆえ長徳3年の記事を欠いており、両作文会とも出てない( ̄◇ ̄;)
だが、ともに一条天皇の御代ゆえ、小生の上記指摘を否定するものではないオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
一条院崩御後に道長第作文会が頻繁に開催されていたとしても、『御堂関白記』を始めとする日記に
書かれてない、あるいは、そもそも日記が残ってない場合があり、暗数の存在を考慮しないと(^_^;)
坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書,2021)151頁も「無論、文書
の残存状況が[文書]発給の有無と一致するわけではない。」と書いてる点は緻密な研究態度(^o^)丿

さて、本書を読んでて、気になったのは、長保2年(1000年)3月2日条(本書331頁)である(@_@;)

     二日、己卯。 結政/法興院行幸、停止/道長第作文会

    ・・・/左丞相(道長)が参られた。次に二条に退出した。御供に供奉した。
    ・・・教命が有ったので、衣裳を改め換えて〈宿装。〉、中宮(藤原彰子)の許に
    参った。作文会が行なわれた。題に云ったことには、「花影が春池に満ちる」と。
    会が終わって、右中弁〈[源]道方。〉・権中将〈(源)成信。〉と帰宅した
    〈時に夜明けであった。〉。

見出し(凡例には「その日の記事の主要な出来事」[本書10頁])は「道長第作文会」としてるが、
藤原道長の自邸(土御門第)で行なわれてても(前掲『藤原道長「御堂関白記」(上)』の同日条の
見出しも「土御門第作文会」)、開いたのは中宮彰子で、中宮作文会とすべきではないかと(@_@;)

長保2年(1000年)には彰子はまだ13歳だから(本書296頁)、父親の道長が「主導している」のだと
倉本一宏は言うかもしれないが、それなら本書420頁の同じ年の8月27日条の見出しは何なの(@_@;)

     二十七日、辛未。 物忌/中宮和歌会

    昨日と今日は物忌であった。左府の命によって、中宮の許に参った。
    和歌会が行なわれた。夜に入って、帰宅した。

「道長主導で盛んに開かれた」との結論ありきで、中宮作文会を道長第作文会としたのかな(@_@;)
タグ:歴史
コメント(6) 
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コメント 6

そら

猫は気まぐれですからねぇ(^^;
by そら (2021-04-19 22:05) 

tai-yama

回数で「好き」を判断するのではなく、作文会の内容で判断すれば
良かったのに。内容は主観だから誤魔化せるとも(笑)。
by tai-yama (2021-04-20 00:05) 

ナベちはる

いろんな見方があっていいものが、「結論ありき」前提でしかも都合のいいように…そんなものは納得がいかないのは仰る通りですね。

それでさらに異議を申し立てたらクビになったなんて…orz
by ナベちはる (2021-04-20 01:06) 

middrinn

怒ってされたのではなく、こちらの想像以上に、
そら様、後ろ足で立ったので、小生が持ってる枝
を獲ろうとした際に指まで届いたのです(^_^;)
by middrinn (2021-04-20 05:40) 

middrinn

毎日出社登校してるから会社学校が好きとは限りませんしね(^_^;)
tai-yama様、たしかに内容なら、解釈の違いで逃げ切れます(^_^;)
by middrinn (2021-04-20 05:41) 

middrinn

人間は偉くなり年を取ると、やりたい放題で、
ナベちはる様、ありえないことしますね(-"-)
by middrinn (2021-04-20 05:44) 

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