SSブログ

210123読んだ本

今月もう本買う予定も余裕も無いのにポイントに釣られて楽天マラソンスロットをやってしまう(-ω-、)

【読んだ本】

山本博文『徳川将軍15代 264年の血脈と抗争』(小学館101新書,2011)

読了(^o^)丿 「おわりに」に「本書では、江戸幕府将軍としての徳川宗家歴代の事蹟、正室・側室、
継承の事情を概観してきた。」(211頁)とあるように、本書は徳川15代の歴史が非常にコンパクトに
纏められている上に、知らなかったことも結構あったので、大変有意義な読書になった(⌒~⌒)ニコニコ

    はじめに

    第一章 幕府創業の時代

     初代将軍家康と正室・側室

      家康最初の結婚/正室築山殿を殺害/築山殿と側室お万の方/家康の側室たち/
      男子を産んだ側室/女子を産んだ側室/戦場に従軍した阿茶局

     家康の子どもたち

      家康の領地分け/秀康と秀忠/徳川一門の配置替え/松平忠輝の改易

    第二章 徳川宗家嫡流の時代

     二代将軍秀忠──律儀で恐妻家だった将軍

      秀忠、初めての縁談/秀忠とお江の結婚/千姫の運命/秀忠の娘たち/
      松平忠直の不満/忠直の行状と処分/望まれなかった長丸と幸松丸

     三代将軍家光──正室を見捨てた将軍

      家光はたしかにお江の産んだ子/家光と鷹司孝子の婚儀/孝子の処遇/
      忠長、甲州へ蟄居/家光、忠長に自害を強要する/お振の方とお楽の方/
      還俗して側室となったお万の方/そのほかの側室たち

     四代将軍家綱──「左様せい様」と呼ばれた将軍

      家綱の将軍宣下と縁組/家綱時代の大奥/家綱の性格と行動/家綱を支えた家臣/
      下馬将軍、酒井忠清

    第三章 徳川宗家傍流将軍の時代

     五代将軍綱吉──御台所に殺されたと噂された将軍

      家綱の後継者候補/綱吉養君指名の謎/綱吉の側室お伝の方/
      家臣の妻や娘に手を付けた綱吉/綱吉と柳沢吉保/柳沢騒動

     六代将軍家宣──公家の文化にあこがれた将軍

      甲府家当主としての家宣の縁談/近衛基煕の鬱憤と栄達/
      家宣と煕子の夫婦生活/綱豊の宗家相続と大奥/後継将軍をめぐる家宣の考え

     七代将軍家継──皇女と縁組みした幼年将軍

      側用人間部詮房と月光院/幕府、皇女降嫁を打診す/皇女降嫁の決定/
      家継の死と八十宮

    第四章 紀州系将軍の時代

     八代将軍吉宗──三段跳びの出世を果たした将軍

      徳川宗家の血筋の断絶/紀州藩主から徳川宗家を継いだ吉宗/
      吉宗時代の大奥/御三卿の創出

     九代将軍家重──言語障がいに苦しんだ将軍

      家重の人となり/家重時代の大奥/家重を支えた老中と側用人

     一〇代将軍家治──田沼意次を信頼した将軍

      家治の不安/温厚で慈悲のある将軍/家治時代の大奥/田沼意次と松平定信/
      嫡子家基の死と養君選定/家治の死と田沼の失脚

    第五章 紀州系傍流将軍の時代

     一一代将軍家斉──慎みのない肉食系将軍

      家斉の縁組み/島津家出身の御台所/家斉時代の大奥/家斉の子女の行方/
      家斉の姫君たち/家斉の死去

     一二代将軍家慶──上臈年寄とのスキャンダルのあった将軍

      家慶の縁組み/御台所がもうけた子/家慶の側室と子どもたち/
      家慶の政治とスキャンダル

     一三代将軍家定──鵞鳥を追いかけるのが好きな将軍

      家定の縁組み/御台所候補を島津家へ打診/島津斉彬と近衛忠煕の思惑/
      篤姫との婚姻/将軍継嗣問題/篤姫の工作と家定の怒り/家定時代の大奥/
      井伊直弼の大老就任/大奥に流れた毒殺の噂

    第六章 紀州系将軍と初めての水戸系将軍

     一四代将軍家茂──和宮を大切にした将軍

      京都での一橋派の巻き返し/安政の大獄/公武合体への動き/
      幕府、和宮降嫁を内願/攘夷の取り引きに使われた和宮降嫁/
      和宮の江戸下向/家茂の覚悟/家茂の上洛と和宮/家茂の客死

     一五代将軍慶喜──幕府を潰した将軍

      慶喜の正室/慶喜の将軍職継承/大政奉還/鳥羽・伏見の戦い/
      絶対恭順を決意した慶喜/和宮の嘆願/天璋院篤姫の覚悟/大奥最後の日

    おわりに

    参考文献・引用史料

    徳川将軍一五代系図・年表

認識を改めなければならないのは家康が嫡男の信康を処分した一件で次の記述(15~16頁)(@_@;)

    ・・・/通説では、信康に疎んじられていた徳姫が、信康への不満を父信長へ手紙で
    書き送ったため、信長が信康を自害させるよう家康に命じた、とされている。しかし、
    それは『三河物語』などに書かれていることで、事実は信長が命じたのではなく、
    家康から申し出たものだったことが明らかにされている(谷口克広『目からウロコの
    戦国時代』)。/・・・

お江が嫉妬深くて、お静の方(保科正之の母)以外は秀忠に側室はいないと思ってたら46頁( ̄◇ ̄;)

    ・・・/秀忠にできた最初の男子は、慶長六年(一六〇一)に生まれた長丸である。
    「幕府祚胤伝」には、母親は「家女[かじょ]」とあるだけで、名前も出自も明らか
    でない。同じ年には勝姫が生まれているから、お江の出産時、つまり秀忠のお側に
    お江がいない時期に側に仕え、秀忠が手を付けたのだろう。/この女性は、すぐに
    江戸城から出され、長丸も翌年九月二五日に夭逝した。/・・・

奇想天外な説を唱える研究者もおられるようで(失礼m(__)m)、49~50頁の記述には笑ったぞ(^_^;)

    ・・・/家光がお江の子ではないという説が提出されている(福田千鶴『お江の生涯』)
    が、確たる根拠はなく憶測にすぎない。福田氏が自説の出発点とするのは、比較的信頼の
    おける『當代記』の次の文章である。/・・・/福田氏は、一〇か月に満たなかったが
    平産(安産)だったという記述を「なにか謎めいている」として議論を展開する。/・・・
    産み月が一〇か月に満たないが、それまで四人の子を産んでいるお江だから平産だった
    ということはありうることである。そもそも『當代記』の文面は、事実をそのまま書いて
    いるとしか思えず、どこにも「謎めいた」ところはない。/この説の最大の問題点は、
    もし家光がお江の子でないとしたら、お江は堂々と正室の子として忠長を跡取りの座に
    据えることができ、それについて家康が文句を言うことはなかったはずだということで
    ある。家光が正室である自分の子だからこそ、忠長を跡取りに据えようとして問題が
    起ったのである。・・・

一方で、通説に対して本書が異論を唱えている点もあり、例えば、館林藩時代からの家臣で側用人と
なった牧野成貞の妻の阿久里や二女の安子にも綱吉が手を付け、安子の婿の成住は自害した、とする
三田村鳶魚の説について次のように評していて(84頁)、大変興味深い〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/『三王外記』などあまり信用のおけない史料に書かれるこれらの説は、
    一般には俗説とされる(塚本学『徳川綱吉』)が、三田村氏は牧野貞寧子爵家蔵の
    『御成記』を参照して、綱吉が安子に迫ったのは江戸城大奥を訪問したときだろう
    と推測するなど、一概には否定できない説である。/・・・

また「・・・[柳沢]吉里が綱吉の落胤だった可能性は高い。」(86頁)としているヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

「こうした言葉を見ると、家慶には、心情のうえでは民衆のことを考え、役人たちの助言を聞く姿勢
が見える。歴代将軍のなかでは、あるいはいちばん善い人物だったのかもしれない。」(157頁)など
といった人物評は根拠(『遠近橋[おちこちばし]』の諸役人への家慶の述懐)が示されてて納得も、
「吉宗が将軍に推された裏には、紀州藩の家臣たちの懸命の工作があったとされる。しかし、その
実態はよくわかっていない。」(108~109頁)という件は文献名ぐらいは示してほしかったな(^_^;)

最後に、「家綱の性格と行動」からチト気になった記述(69頁)を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    /家綱は、儒臣から講義を受けた『貞観政要』(君主の心得を書いた書物)などの文章を
    よく覚えており、遊びなどの際に、「こうしたことは政要にはない」とか「このことは
    政要に戒められているので、しない」などと言ったという。家綱が将軍として正しく
    ふるまうことに努めたことが伝わってくるエピソードである。/家綱が好んだのは、政治
    よりも絵画だった。画家として名声のあった狩野守信(探幽)・安信らを呼んでは絵を
    描かせた。みずからも絵を描き、家臣に与えている。酒井忠勝の下屋敷に御成したとき、
    庭の様子を描いたが、お供した者たちの衣服の紋まで詳細に描いたので、どれが誰だと
    いうことがすぐにわかったという。絵画には、人一倍のこだわりをもっていたのである。
    /・・・

後段の「お供した者たちの衣服の紋まで詳細に描いた」という点が気になる(@_@;) ヘタウマだが、
チョー可愛い絵を描いた家光&家綱を取り上げた芸術新潮2019年4月号の金子信久(本文・図版解説)
「徳川家光、家綱 将軍さまのおえかき拝見!」には次のような件があったからである(@_@;)

    /家綱は、父[家光]とはまた違う個性を発揮した。作品の数は父よりずっと多いし、
    描くことがかなり好きだったのは間違いないが、細部にこだわる父とは違って、
    全般的にラフな表現が持ち味だ。/・・・
コメント(16) 
共通テーマ:

コメント 16

ニッキー

ついつい手を出すってありますよねぇ(ー ー;)
そしてポイントが貯まると無効になるのがもったいないから
我慢してたものに手を出す・・・まんまと戦略にハマってる自分がいます(⌒-⌒; )
by ニッキー (2021-01-23 21:59) 

爛漫亭

 面白そうな本ですね。江戸時代の通史の
理解に役立ちそうですね。本屋さんに行ける
ようになったら見てみます。
by 爛漫亭 (2021-01-23 22:00) 

ナベちはる

ポイントをエサにされ、それに見事につられる…よくあります((+_+))
by ナベちはる (2021-01-24 01:01) 

middrinn

当たったポイントを使わないと、
ニッキー様、運が逃げてしまう
ような気もしますしねぇ(-ω-、)
by middrinn (2021-01-24 05:15) 

middrinn

分量は多くないのに情報量が多いです(^^)
爛漫亭様、幕末の徳川家に関係のない事件
とかは全く触れられてないですけど(^_^;)
by middrinn (2021-01-24 05:18) 

middrinn

普段ラッキーくじを引いている習慣もあって、
ナベちはる様、ついやってしまいます(^_^;)
by middrinn (2021-01-24 05:19) 

そら

徳川時代の264年って長いですよね
その時代の庶民は幸せだったのだろうか?
そういえばウチの寺に綱吉の母親のお墓があります
なんだか身近に感じるなぁ。
by そら (2021-01-24 08:59) 

middrinn

江戸の庶民なら何度か大火に遭ったり米の値段が高騰したりとかありましたが、
他方で明治維新後に徴兵制で戦地に赴くことは無かったわけですからね(^_^;)
綱吉の母の桂昌院、実は八百屋の娘だったらしいので、シンデレラですね(^^)
by middrinn (2021-01-24 09:14) 

ネオ・アッキー

middrinnさんこんにちは。
徳川家15代将軍も、それぞれ個性的ですね。
最後の将軍、徳川慶喜は一橋家に養子に行っていたようですが、昔は戸籍がないので、また徳川家に戻れたのでしょうか・・・?
by ネオ・アッキー (2021-01-24 13:38) 

middrinn

一橋家は御三卿の一つゆえ同じ徳川家一門ではないかと愚考(@_@;)
wikiも「一橋徳川家」で立項してますね(@_@;) 困ったチャン以外の
あまり紹介されてない地味な将軍のことを知ることが出来ました(^^)
by middrinn (2021-01-24 14:39) 

美美

ご無沙汰しています。
昨年暮れにご挨拶を頂きながらご訪問も出来ず今に至ってしまいましたがこれからもよろしくお願いいたします。
by 美美 (2021-01-24 19:05) 

middrinn

こちらこそ宜しくお願い申し上げます(^o^)丿
早くお身体が良くなるよう祈念しますm(__)m
by middrinn (2021-01-24 19:44) 

tai-yama

あら!信康の切腹は、正室 築山殿が武田勝頼と内通している
話だったような気が。大河2作品「徳川家康」「井伊直虎」
は確かそんな感じで・・・・。実は、信康は裏切りそうな素養が
あったので事前に処分した感じなのかな?
by tai-yama (2021-01-24 22:44) 

middrinn

やはり新田次郎『武田勝頼』もそーゆー話でしたが、
違うみたいですよ(^_^;) 本書を御覧あれ(^o^)丿
by middrinn (2021-01-25 05:15) 

yokomi

うーん、またまた興味深い本を....(>_<)
by yokomi (2021-01-25 22:45) 

middrinn

買っても損しない本ですよ(^o^)丿
by middrinn (2021-01-26 06:36) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。