SSブログ

201220読んだ本

「読書とは他人にものを考えてもらうことである」なら、せめて頭脳明晰な著者の本を読まにゃ(^_^;)
ショウペンハウエル(斎藤忍随訳)『読書について 他二篇』(岩波文庫,1960→83改版)のカヴァーの
一文で、「1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく」と続く(^^)

【読んだ本】

迫徹朗『王朝文学の考証的研究』(風間書房,1973)所蔵本

雨海博洋&岡山美樹(全訳注)『大和物語(上)』(講談社学術文庫,2006)の訳で、『大和物語』の
第九十九段を引く(⌒~⌒)

    亭子の帝のお供をして、太政大臣が大井川にお出でになった。紅葉が小倉山に
    とても色さまざまに美しかったので、この上なく賞美なさって、「天皇が行幸
    なさるには、たいへんすばらしいところである。必ず天皇に申し上げて、行幸
    なさるようにいたしたい」などと申されて、そのついでに、

      [小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの 行幸またなん]

       小倉山の峰の紅葉よ、お前に人の心を解する情のあるならば、
       もう一度天皇が行幸なさるまで、このままで待っていてほしい。

    と歌を詠んだのであった。このようにして、お帰りになって、天皇にそのことを
    申し上げますと、(天皇は)「(それは)たいそうおもしろそうだ」というわけで、
    大井川の行幸ということをお始めになったのでした。

貞信公藤原忠平が同歌を詠んだ大井川へのウダダの御幸、そして、醍醐天皇(ウダダの子)の行幸は
何時のことか、『日本紀略』の次の記事(柿本奨『大和物語の注釈と研究』[武蔵野書院,1981]から
孫引き)を根拠に延喜7年(907年)9月の出来事とするのが通説である〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    十日甲申、法皇、文人ヲ召シ、眺望九詠之詩ヲ賦セシム、

    十一日乙酉、伊勢奉幣、天皇、八省院ニ御[おはしま]ス、納言無キニ依リ、
          参議[藤原]有実、宣命ヲ給フ、其ノ日、天皇、大堰河ニ幸ス、

これに対し、『日本紀略』の次の記事(柿本奨・前掲書より孫引き)から、延長4年(926年)10月の
こととした香川景樹の説を一部支持して説得力のある論を展開したのが、迫徹朗の本書収録論文(^^)

    十日、法皇、大井河ニ幸ス、詠歌ノ事有リ、
    
    十九日、天皇、大井河ニ幸ス、法皇、同ジク幸ス、

迫徹朗による考証は、まるで名探偵の謎解きを読んでるようで、メチャ知的興趣を感じた(〃'∇'〃)

柿本奨・前掲書は、迫徹朗による考証を「まことにその運びの如くば、無理の無い所であろう」と評価
しつつも、真っ向から反論して通説を支持しており、両者の論を読み比べると知的トレーニングに(^^)
ただ、柿本奨・前掲書は迫徹朗が示した全ての論点を取り上げているわけではないのがチト残念(^_^;)

その論点の一つで、延喜7年(907年)9月11日に醍醐天皇の大井川行幸は実施不可能であって、本当は
無かったと主張する迫徹朗の根拠は次の通り(^^)

    ・・・[醍醐天皇の]伊勢奉幣の儀式への出御と大井河への行幸との二つが
    同じ日[=延喜7年(907年)9月11日]になされたとは考えがたい。というのは、
    紀略の記事は西宮記によったものと思われるが、西宮記によれば、十一日に
    醍醐天皇が八省院に出御された時刻は「午の一剋」[=11時半頃]である。
    では奉幣が終わって清涼殿に還御になったのは何時ごろかというに、本朝世紀の
    天慶四年九月十一日の条に記された伊勢奉幣の例からすると、その場合は
    「巳三剋」から「午二剋」まで約二時間を要しているから、延喜七年の場合も
    「午の一剋」から始まって、「午の四剋」すなわち午後二時前後に終わった
    であろうと推測される。そうなると、それから大井河へ出かけるには時間的に
    遅すぎるので、行幸はなかったと考えるべきであろう。・・・

この延喜7年(907年)9月11日に伊勢奉幣の儀式と大井川への行幸を行なうのは時間的に不可能とする
迫徹朗の指摘に対して、柿本奨・前掲書は次のように反論している(@_@;)

    ・・・迫氏説の如くば『紀略』の十一日大井行幸の記事を否認する事になるが、
    これはなるべく避けたい。同日に果してこの二儀は不可能であろうか。晩景を
    賞してもよいだろう。貫之の『大井川行幸和歌序』は和歌的表現にもたれた
    美辞を列ね、事実と表現意匠との境目が紛らわしいが、「夕べの猿、山の峡に
    啼きて」などは実景であろうから、法皇は大井で夕刻を過されたらしい。・・・

紀貫之の『大井川行幸和歌序』は延喜7年(907年)9月10日のウダダの大井川御幸に際してのもので、
『日本紀略』の同日条に上記の如く「眺望九詠之詩」とあるように同和歌序にも歌題が九つ出てて、
その一つに「夕べの猿、山の峡に啼きて」とあることから、柿本奨・前掲書はウダダの大井川御幸が
「夕べ」に行なわれたように、醍醐天皇の大井川行幸も「夕刻」になされたものと推理し、同じ日に
伊勢奉幣の儀式と大井川への行幸を行なうことは時間的に不可能ではない、とするのである( ̄◇ ̄;)

柿本奨・前掲書の同件を読んだ瞬間に思ったのは、「夕べの猿、山の峡に啼きて」は「表現意匠」、
すなわち、漢詩に基づいたレトリックであって「実景」では無いのでは?という疑問である(@_@;)

迫徹朗も同和歌序を論じた山本利達の論文に依拠して「・・・この時の題は、E.B.Ceadel氏が整理
されたように漢詩の題めいている。」と既に指摘してたけど、紀貫之『大井川行幸和歌序』の全文が
引用されている『古今著聞集』巻第十四の「亭子院の御時、大井川行幸に紀貫之和歌の序を書く事」
を西尾光一&小林保治(校注)『新潮日本古典集成 古今著聞集 下』(新潮社,1983→2019新装版)
で見ると、「夕の猿山のかひになきて」への同書頭注8に「天寒雁度堪垂涙、日落猿啼恐断腸」という
孟浩然の詩句が引かれていたオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 従って、「実景」ではない、かとv( ̄∇ ̄)ニヤッ

ありもしない「其ノ日、天皇、大堰河ニ幸ス」という文が、『日本紀略』の延喜7年(907年)9月11日
条に記されている理由を迫徹朗は次のように推理する(^^)

    ・・・これは貫之の「大井川行幸和歌序」に「行幸」なる語があること、また大和物語に
    貞信公の奏請で天皇の大井行幸がなされたとあること、この二つを[『日本紀略』編者は]
    結びつけて延喜七年九月十一日を天皇の行幸日と推定した結果と考えられる。・・・

ともに「みゆき」と読むも、上皇・法皇は「御幸」、天皇は「行幸」と書くが、紀貫之の頃は明確に
区別されてなかった由(^_^;) 話を戻すと、坂本太郎『史書を読む』(中公文庫,1987→1992三版)は
『日本紀略』について次のように記している(⌒~⌒)

    ・・・編修が疎漏で、同事を二ヵ所も記している例がまた多い。醍醐天皇の巻などは、
    それがとくに目につく。例を挙げよう。

     a  昌泰二年五月二十二日 太皇太后藤原明子崩ず。年七十三 染殿太后と号す。
     a´ 同三年五月二十三日 太皇太后藤原朝臣明子崩ず。年七十三 清和天皇の母なり。
     b  昌泰三年十月十七日 大法師増命を以て天台座主となす。
     b´ 延喜六年十月十七日 大法師増命を以て天台座主となす。
     c  延喜十三年五月二十六日 今日三品繁子内親王薨ず。
     c´ 同十六年五月二十六日 三品繁子内親王薨ず。光孝第四皇女

    これら各二条の記事は同事を記していて、月日もほぼ同じである。ただ年が少しずつ違う。
    編年の史書で年が違うというのは致命的な欠陥である。真実はどちらか一方にあり、
    他方は誤りである。他書を参考すれば、その真偽は明らかになるが、とにかく一書の中に
    おいてこうした重出を許しているのは、『紀略』の編修が杜撰だと言われても仕方が
    あるまい。編者はいくつかの史料によってこの書を編修したが、原史料の年の誤りを
    看過して、同事を別々の年に記したのであろう。あるいは、この時代は『三代実録』以後
    編修せられた『新国史』の対象とした時代だから、未定稿の『新国史』の誤りを踏襲した
    とも考えられる。/・・・
    
両方とも「醍醐天皇の巻」に入る、延喜7年(907年)9月11日条の「其ノ日、天皇、大堰河ニ幸ス」と
延長4年(926年)10月19日条の「天皇、大井河ニ幸ス」は「重出」かも(^_^;) これも「同事を二ヵ所
も記している例」なら、柿本奨・前掲書が「・・・[『大和物語』]本段は行幸の起りというのである
から、延喜七年のほうになる。」(雨海博洋&岡山美樹・前掲書も同旨)と結論するのは早計(^_^;)
どちらが正しいのか、迫徹朗のように「他書を参考」にして「その真偽を明らかに」せにゃ(⌒~⌒)

井上宗雄『百人一首を楽しく読む』(笠間書院,2003)は迫徹朗の延長4年(926年)説を支持する(^^)
山下道代『歌語りの時代 大和物語の人々』(筑摩書房,1993)は、「・・・独自に延長四年説を論証
する研究者もあった。」としつつ、迫徹朗の名前も文献も挙げずに迫徹朗説を展開・発展させてて、
次の件がある(@_@;)

    ・・・/そしてもうひとつつけ加えておきたい。延喜七年の御幸は九月、
    延長四年の行幸は十月である。これは共に太陰暦に拠っているのだが、
    実際の紅葉の季節は旧暦十月であろう。京都の大井や東山あたりの
    紅葉の最盛期は、年によって多少のずれはあるが、太陽暦で言えば、
    およそ十一月中旬、太陰暦に直せば十月だ。歌題や作序としての紅葉なら
    陰暦九月に詠作されることもあり得ようが、実際の紅葉を見ていましばし
    散らずに待てと詠むことは、陰暦十月でなければあり得まい。/・・・

井上宗雄・前掲書63頁には「・・・([延長4年(926年)]十月十日はグレゴリオ暦十一月二十二日、
十九日は十二月一日)・・・」とある_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
タグ:和歌 歴史
コメント(10) 
共通テーマ:

コメント 10

ニッキー

良い影響を受ける本を読んで、ブログを書く!
これで考える力を失わないで、一石二鳥♪( ´▽`)
問題は頭脳明晰な本を読んで感動しても
その内容をすぐに忘れることだなぁw
by ニッキー (2020-12-20 21:57) 

tai-yama

大井川と言うと静岡の・・・じゃなさそうですね(笑)。
影武者が行幸したとかだったり。
by tai-yama (2020-12-20 23:29) 

ナベちはる

小説であれば物語の登場人物の「人となり」や舞台の背景がどうなっているかを想像することは出来るから…と思ったのですが、それは「想像力」であって「考える力」とは違うとも思いました(^^;
by ナベちはる (2020-12-21 00:55) 

そら

ブログもある意味同じですかね
いや、私の場合は違うか(^^;
by そら (2020-12-21 06:37) 

df233285

わざわざ更に、グレゴリオ暦に直したのかもしれないですけど・・
通常世界史標準にあわせて混乱を避けるのが”しきたり”らしく。
西暦926年頃だと、西洋暦への変換先は、グレゴリオ暦では
なくて、普通はユリウス暦。井上宗雄さん記載が何か不自然
ですよ~。(本来本文中なら、ここで”いぶかる顔”マーク挿入か?)
確か、
ユリウス暦日=グレゴリオ暦日-数日(10世紀)
だったと思いますが・・
by df233285 (2020-12-21 07:17) 

middrinn

小生なんか、ブログに書いた途端に、
ニッキー様、忘れちゃいます(^_^;)
by middrinn (2020-12-21 07:39) 

middrinn

もし静岡の大井川だったら時間的に絶対不可能なので、
tai-yama様、やはり迫徹朗説が正しいことに(^_^;)
by middrinn (2020-12-21 07:44) 

middrinn

ナルホド! そうやって色々想像しながら読まれていれば、
ナベちはる様、叙述との整合性に「考える」ことも(^^)
by middrinn (2020-12-21 07:47) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 特製ブログもある意味同じですかね座布団1枚 ♪
そら様、そう思って、小生は訪問するブログがドカーンと減りました(^_^;)
by middrinn (2020-12-21 07:49) 

middrinn

わざわざ、グレゴリオ暦をチョイスしたのは、
長さん様、井上宗雄が立教大学名誉教授である
というのは何か関係したりしますかね(^_^;)
by middrinn (2020-12-21 07:53) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。