SSブログ

200419昨日買った本&読んだ本

「都内で家族間の感染が増加」に「臭うアノ人とは以前から2mは距離を」とドヤ顔の妻もいたり(^。^;)
「190512読んだ本」に〈「愛を読むひと」(2008年・米/独)_φ( ̄^ ̄ )メモメモ 〉とあったが、今夜
またTVKで放送される(⌒~⌒) 名作と思うけど、超重いし、登場人物の最後の行動が理解できなくて、
ネットで解説を読んだら、深~いことも判った( ̄◇ ̄;) 視たいけど、電気代を節約(´;ω;`)ウッ…
「朝6時5分頃に新ポイントポン!で1000p当たった(^^)」と「190419読んだ本」にあったが今年は(..)

【昨日買った本&読んだ本】

角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)

楽天市場「もったいない本舗 楽天市場店」に「良い」を269円(335円-66p)で15日に注文したのが
昨日18日に届いたけど、どー見ても状態は「可」(^_^;) 古本屋の店頭の100円均一の箱で10年ぐらい
日に照らされてきたような見た目だし、ブックオフなら絶対に買い取ってくれないレヴェル(@_@;)
351円(351→345→336→335円と毎日値下がり中だった)で買ってたらクレームつけてたかも(^_^;)
もったいない本舗が同封してくれる卓上カレンダーが目当てだったしね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

児島高徳の実在や楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の逸話等を否定して「抹殺博士」と言われた
重野安繹とは逆に、伝説(例えば、在原業平の東下り)を史実だと主張しまくるのが角田文衞(^_^;)

本書の「承香殿の女御」とは藤原元子を指してて、彼女は悪霊左府こと藤原顕光の娘である(⌒~⌒)

関白藤原兼通(弟の兼家と仲が悪かったことで有名)の子であり、左大臣にまでなった藤原顕光は、

    ・・・家柄・天皇家との血縁および姻戚関係・地位のどれをとっても、
    当代第一級の大臣であり、まさに朝廷の重鎮として一身に尊敬を……
    集めていてもよさそうなものであったが、実際は無能の大臣として
    朝廷の軽侮を一身に(正確には道長の異腹の兄、藤原道綱とともに)
    集めている存在であった。彼は当時としては珍しく、陰口のみならず
    表口をも叩かれるのが常で、儀式の度に公卿たちの面前で罵倒される
    ことが多かった。しかも無能で耄碌しているとなると、少しはおとなしく
    していればよさそうなものを、儀式や政務の度にそれを自身の手で
    執り行ないたがり、当然の事ながら失態を演じて、ますます人々に
    軽蔑されるという有様であった。・・・顕光一族には実に気の毒な不幸が
    次々と訪れるのであるが、不思議なことに彼は人々から一向に同情された
    気配はなく、ついには死後に悪霊となり、道長家をさんざんに苦しめる
    といった、考えてみればものすごい人物である。/・・・

倉本一宏「摂関期の望ましい政治家像 政務と儀式の実態」芸術新潮1994年4月号から引いたが、ソレ
によると、藤原道長は顕光を「大馬鹿の中の大馬鹿である」(至愚之又至愚也)と罵倒した由(^_^;)

一条天皇の女御だった藤原元子について渡辺実『大鏡の人びと 行動する一族』(中公新書,1987)は、

    ・・・/顕光という人物は感情の激しい人であったらしい。姉娘の元子[妹娘は小一条院
    に嫁いだ延子]には、一条帝崩御後、源頼定(為平親王の息、為平親王は村上天皇の皇子)
    が通って来るようになり、それを知った顕光は激怒して、自ら元子の髪を切って尼とした
    ことがある。尼にするということは、男性との性的関係を以後は持たせぬ、という意志の
    表明であったけれども、元子と頼定との関係は続き、切られた髪ものびて元どおりとなった。
    いわば元子は、父顕光の意にあえて逆らった娘であった。/・・・

といった感じで、元子も顕光もともに面白そうなキャラなんだが、チラッと読んだ限りでは首を傾げ
たくなる記述も散見されたので、本書も面白いかどうかは保証しかねる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

[追記201018]

倉本一宏編『現代語訳 小右記7 後一条天皇即位』(吉川弘文館,2018)258頁の長和5年(1016年)
正月27日条を引く_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

     二十七日、壬申。 道長、固関の儀の際の顕光の失態を罵る/「至愚の又至愚」

    [藤原]資平が云ったことには、「昨日、左相国[藤原道長]が云ったことには、
    『「右府[藤原顕光]は固関の儀の上卿を勤めいてた際、失誤が多端なであった」
    と云うことだ。一条院の御譲位の際の固関についても、右府が上卿を勤めた。
    事の忌みが有るので、私(道長)は頗る意向を示したのだが、そのことを
    覚えておらず、無理に上卿を勤めた。失儀が多かったので、諸卿の為に笑われた。
    至愚のまた、至愚である』ということでした」と。
タグ:歴史 伝記
コメント(15) 
共通テーマ:

コメント 15

喜んぶ

。。~「臭うアノ人とは以前から2mは距離を」
、、相手は、自分を映す鏡だったりして、、。
。。~「大馬鹿の中の大馬鹿である」
、、大天才の中の大天才と、紙一重の人物!?(*'▽')
by 喜んぶ (2020-04-19 19:39) 

middrinn

藤原顕光の失態は土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,2004改版)
を始め、各書が詳しく紹介していて、紙一重どころか月とスッポンかと(^_^;)
by middrinn (2020-04-19 19:42) 

ニッキー

家族間で2m以上離れて暮らせる都内に住んでる方たちは
そう多くは無いですよねぇ(*_*)
家族が感染したら、ウサギ小屋に住んでる日本人はもう諦めるしか無いと・・・w
元子も頼定も顕光に逆らうとはなかなかやりますねぇ(⌒-⌒; )
by ニッキー (2020-04-19 20:37) 

middrinn

家庭内別居しようにも、玄関等への動線が(^_^;)
2mの距離も余裕な堀川の豪邸を顕光は最初は元子
に譲る予定だったのに延子に変更しました(^_^;)
by middrinn (2020-04-19 21:12) 

tai-yama

無能の大臣は今の時代にも。〇理も婦人も・・・・・
同情もされない部分も共通していると。
もしかしたら、死後は悪霊になったり。
by tai-yama (2020-04-19 23:31) 

ナベちはる

家族間で2m以上の距離を取るような場所や物事、なかなか無いようにも感じます(;`・_・´)
by ナベちはる (2020-04-20 01:23) 

middrinn

そんなこと書かれてると、死ぬ前から生霊として、
tai-yama様に取り憑いちゃうかも((;゚Д゚)ヒィィィ!
by middrinn (2020-04-20 06:17) 

mimimomo

おはようございます^^
はは、わたくしはそんなドヤ顔の奥様が見てみたい^^ しかし家族間の感染って多いですよね。うちも気を付けよう。ってこれは難しいね。2m離れられないですものね。
あのポイントポンってなかなか当たらない(-。- 100が一回くらいかな。後はショボイ1とか3くらいだわ。
by mimimomo (2020-04-20 06:19) 

middrinn

2m以上も離れている食卓となると、
ナベちはる様、おかわり頼むのも、
チト一苦労となりますねぇ(^_^;)
by middrinn (2020-04-20 06:19) 

middrinn

新ポイントポン!は必ず1p~3pは当たるので有難いと思ってたら、
mimimomo様、0pの日も最近あって、吃驚ですヒィィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
by middrinn (2020-04-20 06:23) 

df233285

藤原顕光が道長から”大ばか者だ”との旨言われた
御堂関白日記の記載場所が、もし御紹介の書籍等に
載っていて御指摘容易でしたら、御暇なときにでも、私に
も教えてください。借りた図書館が閉鎖中で、再開する
まで返さなくて済む”御堂関白日記(全3冊)”が、
手元にあります。三条天皇時代に、火事で焼けた内裏
を再建するときに、工事の手配に遅れた担当者を、
道長が、確か日記でまとめて罵倒していたような記憶
が私にはありますが。さて、どこだったか。
by df233285 (2020-04-20 08:06) 

middrinn

長和5年(1016年)正月25日の三条天皇の譲位に伴う固関・警固の儀における
藤原顕光の数々の失態に対する評ですが、倉本・前掲論文は出典が『小右記』
ともとれる書き方なので、『御堂関白記』に出ているか御確認頂けると、小生
としても有難いですm(__)m この失態は、土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』
(中公文庫,2004改版)も詳述し、〈・・・道長はすっかりにがり切った。そして、
/「・・・まったく手のつけられない馬鹿者だ(至愚之又至愚也)」/と顕光を
罵倒したという。〉とあり、『小右記』からの伝聞証言とも解せるので(^_^;)
by middrinn (2020-04-20 08:25) 

middrinn

角田文衞の本書は典拠がメチャクチャ細かく記されていることを思い出し、
本書を調べると、〈・・・道長は頭中将資平に「至愚のまた至愚なり」と
語ったという。〉に注が付いていて、「『小右記』長和五年正月二十五日、
同月二十七日条。」とあり、『御堂関白記』ではないようですね(^_^;)
by middrinn (2020-04-20 08:55) 

df233285

長和5年(1016年)正月30日の御堂関白記に、意訳しますと
”ある人から聞いた話では『右大臣が敦明親王と、藤原娍子のところへ
やってきて、除目もしていないのに、”自分は東宮傅に任じられる"と
言いふらし、敦明親王からは、お祝いをもらい、藤原娍子から禄物を
賜った(ぶんどった)』ということだ。1月30日の朝聞いた。70歳にも
なった右大臣がした事としては、誠に不覚なことである。この人間は
元から馬鹿者なので、こんな事を、しでかしたのである”との旨の記載
が、確かにあります。
by df233285 (2020-04-20 09:15) 

middrinn

興味深い記述ですね(^^) 倉本・前掲論文も土田・前掲書も角田の本書も、
「至愚之又至愚也」は長和5年(1016年)正月25日の固関・警固の儀での
顕光の失態に対しての評として紹介しております(^^) とりわけ、倉本は
〈・・・道長は「一条天皇の譲位の際の固関にも顕光が上卿を勤めて失態
を演じたので、今回は上卿辞退をほのめかしたのに、それに気付かすに無理
矢理上卿を勤め、多くの失態を演じて諸卿に笑われるとは、大馬鹿の中の
大馬鹿である(原文は「至愚之又至愚也」)」と言って罵った。/・・・〉
とあります(^^) 道長が顕光を馬鹿者と思っていたことは、御指摘の記述
から、上記の伝聞証言よりも確実と言えますね(^^) 本書の注によると、
顕光が「三月十六日、東宮傅に任ぜられたことは『公卿補任』長和五年条
並びに『尊卑分脈』第一巻、摂家相続孫にみえる。」とあるので、日記で
罵倒しながらも、道長は顕光を東宮傅に任命したようで面白いですね(^^)
by middrinn (2020-04-20 09:36) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。