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160926読んだ本

声帯労働者とはよく言ったもので、しかも、頭もフル回転させたから流石に今日はぐったりちゃん(+_+)

【読んだ本】

森銑三&柴田宵曲『書物』(岩波文庫,1997)所蔵本

のんびり数篇ずつ読むことにしたが、教えられ考えさせられる本(^^) 「はしがき」で「無用の書」と
卑下するのは、原著が出たのが1944年3月という大変な時期だからだろうけれど(1948年に増訂版)、
不思議に思えたのが、「書物過多の現状」という項が立てられ、「書物の出版量の激増しているのに
反して、その実質は往昔に比して下落して来ている。近来は殊にその傾向が甚しい。書物の氾濫という
ことは要するに凡書の氾濫を意味しており、千百の新刊書中、一、二の良書を見出すことが困難と
せられる。ただ售らんがための、その場限りの書物があまりに多過ぎる。」という件など読んでると、
まるで今の話のように思えてくること( ← この現状認識はあくまで個人的な印象だけど)(@_@;)
森銑三は「かような書物過多、出版物過多の状態にあるということは、読書家のためにも、書物その
もののためにも、好ましからざることどもといわねばならぬ。要するにあまりに安価な態度で書物が
作られ過ぎている。」として(書物は「多くの人々の労力の結晶」ゆえ「粗略に取扱うことをしたく
ない」という信条が根底にあるのだろう)、「書物をかように安直なものとしてしまった責任の一半は、
利慾以外に何物もない出版業者が負うべきではないかと思う。」と責める^_^; 「出版業者」の項でも
「売れそうな書物でなくては出そうともしない。あるいは売れそうな書物なら何でも出そうとする。
そうした態度があまりにも露骨であったりする。出版界を見渡しても、信用のある出版業者というもの
があまりになさ過ぎる。」と厳しいんだけど、もし森が生きてたら現在の出版業界をどう見たかしら^_^;
「出版機構の欠陥」の項で「著述家の手で、著述の原稿がまず成って、それを出版業者が引受けて出版
する。それが順序である。著述家が主であり、出版業者は従たるべきである。しかし実際そうではなく
て、その反対となっている。出版業者が企画を立てて、その企画に依って、著述家に原稿を作らせる。
そしてそれを出版する。即ち出版業者が主で、著述家は従となっている。」とあるのも気になった(..)
「'60年代のベストセラーキング」光文社の神吉晴夫社長が創刊したカッパブックスについて、光森忠勝
の「神吉晴夫とカッパブックス」(ノーサイド1996年3月号)は〈それまでの本作りは「エライ先生の
原稿を編集者がおしいただき、読者に下げ渡す」という考えが支配的だった。それに対して、本の企画
を編集者がたて、その内容にそって著者に書いてもらったのが、カッパブックスだった。それゆえ、
編集者を出版プロデューサーと呼んだ。〉と、「創作出版」と称した神吉の方法論を紹介してるけど、
実は神吉の独創ではなくて、戦中・戦前の本作りの一般的な方法を復活させただけだったのかしら(@_@)

井上章一『キリスト教と日本人』(講談社現代新書,2001)所蔵本

池田弥三郎『百人一首故事物語』(河出文庫,1984)所蔵本

僅かな期間限定ポイントのために千円の値引きもされずに2700円または3132円の本を買うのは馬鹿だな^_^;
タグ:書物 出版
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