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160724読んだ本

好きだったアイドルのポスターと同じくらい、昔ハマった作家の本が大量に出てくるのも恥ずかしい^_^;
サントラLP特典か劇場版さよなら999ポスターも出てきたけど、小松原一男や椋尾篁らによるもので、
廃墟となった都市の道端に誰が置いたのか、真紅のバラ一輪だけが真っ暗闇の中ほんのりと浮かんでて、
通りがかったメーテルも見つめている・・・実に幻想的で、ついキッチン換気扇の上に貼ってしまったわ^_^;

【読んだ本】

中野京子『名画の謎 旧約・新約聖書篇』(文春文庫,2016)所蔵本

ブリューゲル『バベルの塔』の左「手前の石切り場」について、ニムロデ王に対して「労働者たちが
帽子を脱いで挨拶しており、中には跪いて手を合わせる者もいる。なにしろ王は地上の神と見做され
ていた。」と本書は読み解くけれど、若桑みどり『絵画を読む~イコノロジー入門』(NHKブックス,
1993)だと、「ただひとり総監督のニムロデとその家臣たちは威張っているが、その前にはさながら
命ごいをしているようにニムロデにひざまずいている石工がいる。その他の仲間は彼のために王に
詫びている様子である。前景に起こっているこのエピソードは、ここに働いている労働者の一般的
状態が不幸なものであることを作者が注釈しているのである。」と指摘して、「ブリューゲルの絵の
もっとも顕著な特徴の一つ」へと論が展開されてる(@_@) ただ、この「指摘」は、同書が引いている
カシュ・ヤーノシュ編『ブリューゲル・さかさまの世界』大月書店のものか、ソレからインスパイアされた
若桑自身のものなのか不分明な嫌いがある(-_-) かつてユリイカ臨時増刊の澁澤龍彦総特集号に
「註のない文章について」という論稿を寄せて、澁澤と美術史家の文章の違いを論じ、美術史家が
「註を付ける」のは「まず第一に、そのことを誰が言ったのかを示すためであり、そのことによって、
自分自身の見解と、他者の見解とが、読者によってはっきりと分別できるようにするためである。」
と明言してた若桑らしからぬ論述なのが残念(;_;) 行き掛けの駄賃で更にメモっておくと、浅田彰&
島田雅彦『天使が通る』(新潮文庫,1992)では、「澁澤龍彦というのがたかだか高度成長期までの
文学者だったということだ。・・・それに、ヨーロッパがまだまだ遠く、洋書を手に入れるのも難しかった
から、あの程度でも素人は眩惑できたという事情もある。」云々と、浅田は相変わらず手厳しいね^_^;

村松剛『教養としてのキリスト教』(講談社現代新書,1965)所蔵本

安彦良和『イエス 愛蔵版』(NHK出版,2003)所蔵本

歿後も関連本が次々出て、二・二六産業の如き澁澤産業には結構出費した^_^; 「彦」の字見つからぬ(..)
タグ:絵画
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