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231229読んだ本

疑問点が解消したキタ━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━!!!! キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!!
いつもより街自体が大変な人出だったこともあるけど、ブックオフが激混みだったヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

【読んだ本】

渡邉義浩『三国志 演義から正史、そして史実へ』(中公新書,2011)所蔵本

    銅雀台ともいう。曹操が建てたもの。彼は臨終のときに遺言して、わが死後は
    銅雀台に帳[とばり]を張り、宮中の妓女たちをこの台に住ませ、毎月の一日
    と十五日には音楽を演奏させよ、また百官はこの台に登って、西陵のわが墓を
    望めと言い、それが実行された。そこで望陵台の名ができたという。

承前(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-12-28 )(^^) 岑参の「登古鄴城」
(古鄴城に登る)に出てくる「望陵台」についての前野直彬(注解)『唐詩選 (上)』(岩波文庫,
2000)の語釈の説明だが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-09-29 )、
このような「遺言」が本当にあったのか気になってた(@_@;) 前野直彬(注解)『唐詩選 (下)』
(岩波文庫,1963)の劉庭琦「銅雀台」の冒頭解説でも「・・・[魏の]武帝[曹操]は死ぬとき、
子供たちに向かい、この楼上に常時自分を祭り、毎月一日と十五日には宮女に歌舞を演じさせ、また
お前たちはいつも楼に登ってはわが墓を望めと遺言したという。・・・」と同旨の説明があるけど、
文帝曹丕が于禁に高陵(曹操の陵墓)を詣でさせた話が伝わってる以上、わざわざ銅雀台からの遥拝
=「遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむこと。」(『大辞林』第一版第一刷)を遺命とは、
チトおかしいかと(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-11-25 )(@_@;)

謎を解く手掛かりが松浦友久&植木久行(編訳)『杜牧詩選』(岩波文庫,2004)の「赤壁」の語釈
に(同書69~70頁)キタ━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━!!!! キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!

    銅雀──曹操の魏国の都、鄴城(・・・)西北隅[ぐう]の、城壁上にあった
    楼台[たかどの]「銅雀台」。楼上に飾られた雲雀[うんじゃく](鳳凰)に
    ちなむ命名である。建安十五年(二一〇)の冬に完成し、曹操父子らの宴楽の場
    となった。ここでは、「曹操の寵妾[ちょうしょう]の居る所」(『詩林広記』
    前集六)の意。このイメージは、曹操の遺令(遺言)──婕妤[しょうよ]
    (女官)や妓女たちを銅雀台に置いて、自分の霊前に向かって、月に二回歌舞を
    演じるように命じた(陸機「魏の武帝を弔う文」)──から派生したものらしい。
    〔補注26〕。

    鎖二喬──鎖は幽閉する。・・・ちなみに「二喬を鎖[とざ]す」発想は、
    杜牧の時代すでに伝承した逸話[エピソード]──晩年の曹操は、鄴都に
    壮麗な銅雀台を建て、文人や美姫[びき]を集めて栄華を誇っていた。
    彼の呉国併呑の野望は、天下統一の野望であると同時に、呉の美人姉妹
    「二喬」を捕えて銅雀台に侍[はべ]らせたいという好色の野望でもあった
    (『三国志演義』系説話の原型)──が、踏まえられている。
    
「補注26」を見ると「補注4に同じ。」(同書391頁)とあり、補注4は「松浦友久編『漢詩の事典』
(大修館書店、一九九九年)第三章参照。」(同書389頁)と記されていたので、松浦友久(編著)
植木久行&宇野直人&松原朗(著)『漢詩の事典』(大修館書店,1999)も調べると、「Ⅲ 名詩の
ふるさと(詩跡)」の「2 河北省」の「鄴・銅雀台」の項に次の記述(同書307~308頁)(@_@;)

    ・・・/曹操は建安二十五年(二二〇)、天下統一の野望を果たせないまま、
    洛陽で没した(六十六歳)。このとき、英雄らしからぬ執着心に満ち、「永く
    後代の嗤ひと為る」(李邕「銅雀妓」)〔15〕とも酷評される「遺令」(遺言)
    を残した。「わが婕妤(女官)や妓女たちは、銅雀台に置き、そこの堂(霊殿)
    の上に八尺の牀[しょう](台)と帳[とばり]を設け、朝夕に供物をあげよ。
    月の一日と十五日には、いつも帳の中に向かって歌舞をなせ。お前たち(息子
    を指す)はしばしば銅雀台に登って、わが西陵(西の陵[おか])の墓地を
    望み見よ」と命じ、さらに香の処置のしかたを述べたり、側室たちには「組み紐
    の履[くつ]を作って売れ」などと、こまごまとした指示を与えた(陸機「魏の
    武帝(曹操)を弔ふ文」)。このめめしい[←傍点あり]遺令は、後世長く物議
    をかもすことになる。/・・・/生前、曹操に寵愛され、その死後、銅雀台の
    霊前で歌舞を演じ続けた妓女たち、いわゆる「銅雀妓」の悲しみは、楽府詩
    「銅雀台」「銅雀妓」の中で、長く歌いつがれた。盛唐の劉庭(廷)琦「銅雀台」
    は後に残された歌妓の悲哀に焦点をあてた代表作であろう。/・・・
 
このチトおかしな曹操の「遺令」とは、実は陸機(陸遜の孫)が紹介したものであり、ソレが後世に
影響を与えたことは岑参や劉庭琦の唐詩を見ればたしかに事実だけど、その「遺令」の内容が事実か
どうかは全くの別問題で、本書は陸機の「弔魏武帝文」も引きながら次のように論じている(^_^;)

    ・・・/先に挙げた曹操が臨終の間際、妾に香を与える遺言をする毛宗崗本[『三国志
    演義』]の場面は、陸機の文学作品「弔魏武帝文(魏の武帝を弔う文)」に基づいて
    いる。『文選』にも「弔文」の代表として収められる「弔魏武帝文」は、陸機が曹操の
    遺令を見た驚きと嘆きを描く。/

     ・・・

    陸機は、天下の英雄たる曹操が、死に臨んで女性たちに女々しく心惹かれ、夫人に名香
    を分けることを言い遺し、妾たちが履[くつ]を作ることにまで気を配っていることを、
    あまりにも細かすぎると批判する。/

     ・・・

    ・・・/陸機の「弔魏武帝文」に引用される曹操の遺言は、一部分が陳寿の『三国志』
    に伝えられる曹操の遺令と共通するため、陳寿が記録した遺令のもととなった本来の
    遺言と考えられることも多かった。しかし、曹操臨終の場に、[「弔魏武帝文」が描く
    ように]曹丕を含めた四人の息子たち(曹丕・曹彰・曹植・曹熊)が立ち会ったはずは
    なく、曹彪も末っ子ではない。たとえ陸機が本物の遺言を見る機会があったとしても、
    「弔魏武帝文」は、虚構を含む文学作品と捉えるべきである。陸機は、遺言を捏造して
    まで、曹操の女々しい姿を描いた。意図的に曹操を貶めている、と言えよう。/孫呉の
    旧臣下である陸機は、西晉で差別を受けていたのである。・・・こうした差別に対して、
    陸機は、曹操を女々しく描くことで、中原の貴族が呉に対して抱く優越意識の淵源を
    潰そうとしたのである。/・・・
タグ:古典 中国 歴史
コメント(4) 
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コメント 4

df233285

私も呼吸器系の感染症を避けるため、普通なら空いている時間を
狙ってスーパーに入ったが、混んでいたのはそのスーパーだけだ
が人波が凄かったので、ゴミ袋一枚買って29日は退散した。
by df233285 (2023-12-30 06:41) 

middrinn

年末で休みに入った店も多くて、開いている店は
限られるので、自然と混んでしまいますね(^_^;)
by middrinn (2023-12-30 10:55) 

tai-yama

「死人に口なし」・・・・と(怖)。
陳寿を騙したので(その後の偉大な文人も含めて)、やはり大都督陸遜
の血を引いているだけあるなと。
by tai-yama (2023-12-30 20:01) 

middrinn

少し考えればチトおかしい内容と気付くはずで、
本物と信じた人々は頭が悪・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2023-12-31 04:20) 

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