古本はネット上の市場で第1巻と最終巻だけ極端な高値が付けられていて入手困難なことがあるけど、
我が図書館では『SPY×FAMILY』第1巻も『ちはやふる』第50巻も常に貸出中で未だに読めぬ(-ω-、)

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記1 三代の蔵人頭』(吉川弘文館,2015)

    ・・・/たいへんおもしろいことは、こんなに貴い身分でいらっしゃる師輔公が、
    〔官位の低い〕紀貫之の君の家にお出かけなさったことでして、〔こうしてみると〕
    「なんといってもやはり和歌というものは、すばらしいものだ」と感じたことでした。
    ・・・

保坂弘司『大鏡全評釈 上巻』(學燈社,1979)の訳だけど、『大鏡』は大納言だった藤原師輔が代詠
を依頼するために紀貫之の家を訪ねたことがあったとする(@_@;) 歌徳説話のような描き方だが、
目崎徳衛(日本歴史学会編集)『紀貫之』(吉川弘文館人物叢書,1961→1985新装版)は史実として
解しているみたい(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-27 )(@_@;)
史実ではなく伝承と思うが、それはさておき、高官は卑官の家を訪問しないという行為規範が当時
あったと書いたのは(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-17 )、厳密さ
を欠いていたかも(@_@;) 官職が上位の者は下位の家を訪ねないというのが正確なのかも(@_@;)

というのは、例えば、藤原実資の日記『小右記』から、先ずは永観2年(984年)12月5日条を本書の
訳(本書133~134頁)で引く(@_@;)

     五日、庚辰。 藤原桃子入内/宗子内親王退出

    内裏に参った。晩方、[左]大将[藤原朝光]の御許に参った。昨日、(藤原)惟明
    朝臣を遣わして、御書状があったからである。将軍[朝光]の女[桃子]は、閑院に
    於いて着裳の儀を行なった。儀式が未だ終わらない頃、召しによって、内裏に帰り
    参った。候宿した。将軍の女は、着裳の後、今夜、入内した。麗景殿を曹局とした。
    式部丞(藤原)元命[もとなが]を御使として、閑院(朝光[あさてる])に遣わ
    された。・・・

藤原兼通の子で「閑院の左大将」こと権中納言の藤原朝光[あさてる]は娘の藤原桃子(姫子とも)
を着裳と同時に入内させて、その後、花山天皇の女御としたわけだが、この日は右大臣の藤原兼家も
藤原朝光の閑院を訪問していたようで、翌6日条を本書の訳(本書134頁)で引く(@_@;)

     六日、辛巳。

    雨であった。早朝、退出した。伝へ承ったことには、「昨日、右大臣〈(藤原)
    兼家。〉は、左将軍(朝光)の女の着裳所に向かった。すぐに被物と引出物
    〈馬二疋。〉が有った。未だ大臣が納言の家に向かう例はない。天下の人が
    頗る驚いたことは、極まり無かった。右大将(藤原済時)にもまた、引出物
    〈馬一疋。〉が有った」と云うことだ。召しによって、殿[藤原頼忠]に
    参った。重ねて楠葉牧[くずはのまき]の事を奏上された。丞相が納言の家に
    到った事に、殿下は深く咎めらるる事が有った。

藤原兼通は既に貞元2年(977年)に亡くなってるし、兼通と兼家の兄弟の不仲・対立は有名なので、
藤原桃子の母が重明親王(村上天皇の子)と藤原登子(師輔女)の間の子で、兼家は師輔の子ゆえ、
兼家は朝光を訪ねたのかしら(@_@;) さて、藤原実資は「大臣、未だ納言の家に向かふ例有らず。
天下の人、頗る驚くこと、極まり無し。」と例の如くプンプンだけど、「丞相、納言の家に到る事、
殿下、深く咎めらるる事有り。」とあるので、大臣は納言の家を訪ねないという行為規範が存在する
ことは藤原実資だけでなく藤原頼忠も認識しているようだ(@_@;) この「丞相」(本書134頁)は、
同1日条には「・・・丞相(源雅信)・・・」(本書132頁)とあるけど、左大臣の源雅信ではなく、
右大臣の兼家のことだろうし、「納言」は権大納言の藤原朝光であることは言うまでもない(@_@;)

また、藤原道長の日記『御堂関白記』の寛弘7年(1010年)正月4日条から、倉本一宏(全現代語訳)
『藤原道長「御堂関白記」(中)』(講談社学術文庫,2009)の訳で引く(@_@;)

     四日、甲寅。 中宮大夫、藤原頼通家来訪

    「昨日の訪問の返礼に、中宮大夫[藤原斉信]が左衛門督[藤原頼通]の家(高倉第)
    に来られた」ということだ。未だ大納言が中納言の家に来たということを聞いたことが
    ない。恐悦したことは少なくなかった。・・・

「未だ大納言の中納言の家に来たることを聞かず。」とあるのは、この時、藤原斉信は権大納言で、
藤原頼通は権中納言だから(@_@;) 国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」で
藤原行成の日記『権記』の同日条も見たけど、〈四日、甲寅。国忌。「中宮大夫、昨の事を謝す為、
左衛門督殿に詣で給ふ」と云々。「引出物二疋」と云々。〉と淡々と事実を記すのみで、さとう珠緒
じゃなかった藤原実資のようにプンプンしていないところが、如何にも藤原行成らしいわな(@_@;)

大臣が納言の家を訪ねた例、大納言が中納言の家を訪ねた例はともに無いという以上、訪問先が卑官
に限らず、官職が上位の者は下位の者の家を訪ねないという行為規範が当時あったのだろう(@_@;)

ただ、その行為規範に違反した例が複数存在することも判明したわけなので、そうなると、藤原師輔
が紀貫之の家を訪ねたとする『大鏡』の叙述も史実だったのだろうか(@_@;) 以前に論じた通り、
もしも事実なら「悦び恐るること、少なからず。」(『御堂関白記』)ということで為氏筆本以外の
『貫之集』の詞書にも記していたはずだから、やはり伝承にすぎないと愚考オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

だが、『権記』は気になる(@_@;) 春名好重『上代能書伝』(木耳社,1972)は「身分の差別がやか
ましかった藤原時代に、権中納言で正二位の行成が(当時は身分の賤しい)経師の家へ行くことはで
きない。」と断じてたけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-07 )、
藤原実資や藤原道長のような反応を藤原行成が『権記』に記して無いことが却って気になる(@_@;)