やはり血流か、思い付いた時にストレッチをして、マッサージ(タイ古式)も受けたりしたお蔭で、
今季は右手のシモヤケが発症するも重症化することなく終わりそうだヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪
【読んだ本】
北山茂夫『藤原道長』(岩波新書,1970→1995特装版「岩波新書 評伝選」)
本書の「第2章 クーデターとその後」の「彰子の入内」という見出しの節で、入内の準備に関する
次の件(本書66頁)を読んで思ったことが2つあった(@_@;)
・・・第二に、すくなくとも三〇人はこえる侍女(女房)らの徴募である。
彰子は一二歳、入内してからも、その教育は侍女たちに委ねなければならない。
具体的な資料の乏しい後者から書こう。中宮[定子]の方は、すでに一〇年に
わたって、清少納言をはじめ、すぐれた才女、忠勤を励む女をよりすぐって集め、
異彩を放っている。中宮大夫の官にもついたことのある道長には、この状況が
痛いほど焼きついていたはずである。道長は、それをにらみすえながら、昵懇の
公卿、家司、受領らにいい含め、八方に女をさがしたであろう。宮仕えのこと
ではあり、道長の御声がかりとあれば、受領、没落に瀕した公卿の家では、
すすんで女をさしだしたにちがいない。そしてこの女さがしはかなりあとまで
つづき、やがて、著名な人をあげれば紫式部、赤染衛門、伊勢大輔、和泉式部
らが姿を現わす。これらすべての女たちがいかにそれぞれ個性的であったかは、
『紫式部日記』からよくうかがわれる。王朝文化をうみだした生活的根源の一つが
この侍女グループにあった。なかんずく文人系血脈をひく女が傑出している。
なお、宮廷のそとの、中くらいの貴族層の家々が王朝ふうな教養に富む女を
多く育てていた、より一般的事実にも想到せざるをえない。ここにおける
左大臣道長の役割は、現代風にいえば、最高のスポンサーでプロデューサー
をも兼ねたものとみなされようか。/・・・
ついでに、本書65頁の「侍女文学」に付された註5(本書197~198頁)も引いておく_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
/道長の時代とその前後の文学の創造は、女房(侍女)たちによって担われて発展した
といわれる。この通説は妥当なものであろう。しかし女房ないし女房集団のあり方に
ついては、論議すべき点が多くのこされているとおもう。/宮廷には、遠く古い時代
から采女[うねめ]というものがあり、この時代にもなお存在した。彼女たちは、
文学の制作に携わることはほとんどなかった。郡司(地方の土豪)から天皇のもとに
貢進されたという身分と宮廷での拘束された生活によって、それが妨げられたので
あろう。諸貴族の女たちも宮仕えする慣習があった。これらの人々は、万葉の作者
として登場することがすくなくなかった。/道長とその前後の時代の女房集団は、
帝后また女御などのために摂関家または権門が採用したもので、宮仕えという関係は
采女と変りはなくても、その性格は大いに異なる。女房たちの出自は、主に中流の貴族
である。宮廷においては、采女のごとき拘束はほとんどうけなかった。彼女たちには、
貴族の女としての教養があった。むしろ、その教養が買われて、女房にえらばれた人々
である。したがって、后を主人としたこの集団には、宮廷風な文芸をうみだす主体的
条件があった。『枕草子』『紫式部日記』あるいは、『後撰集』以下の歌集、また
私家集をよめば、それがよくわかる。彼女たちは、相互に、文学の才を競いあっただけ
ではなく、才ある公卿以下の貴紳、文人との、日常的ともいえる公私の交渉を通じて、
文芸作品を創造する機縁を多くもっていた。むろん、『源氏物語』の雨夜の品定めの
内容が示唆するように、女房たちもまた貴紳にたいしては、自由なりとはいえ、
弱者の立場であった。宮廷のサロンなどというのは、まったくあたらない歴史的状況
であった。この状況に抵抗する意味をもふくめて、藤原時代の王朝には特有の女房の
文学が創造されたのである。/
「抵抗」なんて書くところが北山茂夫らしい、てゆーか、そういうとこだぞオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
話を戻すと、先の引用部分を読んでいて小生が思ったことの一つが、とりわけ彰子の方の女房たちは
タレント揃いなのに一条天皇の御手が付いた女房はいなかったのだろうかという疑問である(@_@;)
というのは、ウダダの女御となった藤原基経女の温子に仕えていた伊勢タンに、ウタダの手が付いて
子も生したという前例があるから(@_@;) 和歌に関しては女流歌人ナンバーワンの実力だし、その
家系は文章道に深い関わりがあるらしいので漢詩文にも通じてそうだし、管弦にも秀でていたから、
温子の「教育」係として適格だけど、温子と年齢が近いということで、秋山虔『王朝の歌人5 伊勢』
(集英社,1985⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-07-01 )は加納重文の説
を支持して、伊勢タンを(温子が目的を達成できなかった場合の)摂関家の保険と推定する(@_@;)
同書は「・・・宇多天皇の後宮事情は、一条天皇朝のそれとは多分に趣を異にしている。」として、
「・・・宇多朝の皇妃が摂関家や高級貴族の娘にかぎられなかった」という事実を指摘し、一条朝は
モチ異なるとしてるけど、ハプニング的に一条天皇の御手が付いたりはしなかったのかなぁ?とふと
思った次第(@_@;) 現に紫式部には藤原道長の手が付いたわけだしさ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
・藤原道長愛人説を否定しつつ『紫式部日記』の和泉式部評を等閑視するバカチン国文学者ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-02-11
・北山茂夫『日本の歴史4 平安京』は業平卒伝を「略才学有り」と引くが正しくは「無し」ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-03-27
・平安時代を律令国家崩壊過程と捉える旧来の歴史観は『万葉集』マンセー和歌史観と親和的(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-01-29
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-01-31
今季は右手のシモヤケが発症するも重症化することなく終わりそうだヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪
【読んだ本】
北山茂夫『藤原道長』(岩波新書,1970→1995特装版「岩波新書 評伝選」)
本書の「第2章 クーデターとその後」の「彰子の入内」という見出しの節で、入内の準備に関する
次の件(本書66頁)を読んで思ったことが2つあった(@_@;)
・・・第二に、すくなくとも三〇人はこえる侍女(女房)らの徴募である。
彰子は一二歳、入内してからも、その教育は侍女たちに委ねなければならない。
具体的な資料の乏しい後者から書こう。中宮[定子]の方は、すでに一〇年に
わたって、清少納言をはじめ、すぐれた才女、忠勤を励む女をよりすぐって集め、
異彩を放っている。中宮大夫の官にもついたことのある道長には、この状況が
痛いほど焼きついていたはずである。道長は、それをにらみすえながら、昵懇の
公卿、家司、受領らにいい含め、八方に女をさがしたであろう。宮仕えのこと
ではあり、道長の御声がかりとあれば、受領、没落に瀕した公卿の家では、
すすんで女をさしだしたにちがいない。そしてこの女さがしはかなりあとまで
つづき、やがて、著名な人をあげれば紫式部、赤染衛門、伊勢大輔、和泉式部
らが姿を現わす。これらすべての女たちがいかにそれぞれ個性的であったかは、
『紫式部日記』からよくうかがわれる。王朝文化をうみだした生活的根源の一つが
この侍女グループにあった。なかんずく文人系血脈をひく女が傑出している。
なお、宮廷のそとの、中くらいの貴族層の家々が王朝ふうな教養に富む女を
多く育てていた、より一般的事実にも想到せざるをえない。ここにおける
左大臣道長の役割は、現代風にいえば、最高のスポンサーでプロデューサー
をも兼ねたものとみなされようか。/・・・
ついでに、本書65頁の「侍女文学」に付された註5(本書197~198頁)も引いておく_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
/道長の時代とその前後の文学の創造は、女房(侍女)たちによって担われて発展した
といわれる。この通説は妥当なものであろう。しかし女房ないし女房集団のあり方に
ついては、論議すべき点が多くのこされているとおもう。/宮廷には、遠く古い時代
から采女[うねめ]というものがあり、この時代にもなお存在した。彼女たちは、
文学の制作に携わることはほとんどなかった。郡司(地方の土豪)から天皇のもとに
貢進されたという身分と宮廷での拘束された生活によって、それが妨げられたので
あろう。諸貴族の女たちも宮仕えする慣習があった。これらの人々は、万葉の作者
として登場することがすくなくなかった。/道長とその前後の時代の女房集団は、
帝后また女御などのために摂関家または権門が採用したもので、宮仕えという関係は
采女と変りはなくても、その性格は大いに異なる。女房たちの出自は、主に中流の貴族
である。宮廷においては、采女のごとき拘束はほとんどうけなかった。彼女たちには、
貴族の女としての教養があった。むしろ、その教養が買われて、女房にえらばれた人々
である。したがって、后を主人としたこの集団には、宮廷風な文芸をうみだす主体的
条件があった。『枕草子』『紫式部日記』あるいは、『後撰集』以下の歌集、また
私家集をよめば、それがよくわかる。彼女たちは、相互に、文学の才を競いあっただけ
ではなく、才ある公卿以下の貴紳、文人との、日常的ともいえる公私の交渉を通じて、
文芸作品を創造する機縁を多くもっていた。むろん、『源氏物語』の雨夜の品定めの
内容が示唆するように、女房たちもまた貴紳にたいしては、自由なりとはいえ、
弱者の立場であった。宮廷のサロンなどというのは、まったくあたらない歴史的状況
であった。この状況に抵抗する意味をもふくめて、藤原時代の王朝には特有の女房の
文学が創造されたのである。/
「抵抗」なんて書くところが北山茂夫らしい、てゆーか、そういうとこだぞオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
話を戻すと、先の引用部分を読んでいて小生が思ったことの一つが、とりわけ彰子の方の女房たちは
タレント揃いなのに一条天皇の御手が付いた女房はいなかったのだろうかという疑問である(@_@;)
というのは、ウダダの女御となった藤原基経女の温子に仕えていた伊勢タンに、ウタダの手が付いて
子も生したという前例があるから(@_@;) 和歌に関しては女流歌人ナンバーワンの実力だし、その
家系は文章道に深い関わりがあるらしいので漢詩文にも通じてそうだし、管弦にも秀でていたから、
温子の「教育」係として適格だけど、温子と年齢が近いということで、秋山虔『王朝の歌人5 伊勢』
(集英社,1985⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-07-01 )は加納重文の説
を支持して、伊勢タンを(温子が目的を達成できなかった場合の)摂関家の保険と推定する(@_@;)
同書は「・・・宇多天皇の後宮事情は、一条天皇朝のそれとは多分に趣を異にしている。」として、
「・・・宇多朝の皇妃が摂関家や高級貴族の娘にかぎられなかった」という事実を指摘し、一条朝は
モチ異なるとしてるけど、ハプニング的に一条天皇の御手が付いたりはしなかったのかなぁ?とふと
思った次第(@_@;) 現に紫式部には藤原道長の手が付いたわけだしさ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
・藤原道長愛人説を否定しつつ『紫式部日記』の和泉式部評を等閑視するバカチン国文学者ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-02-11
・北山茂夫『日本の歴史4 平安京』は業平卒伝を「略才学有り」と引くが正しくは「無し」ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-03-27
・平安時代を律令国家崩壊過程と捉える旧来の歴史観は『万葉集』マンセー和歌史観と親和的(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-01-29
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-01-31