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221205読んだ本

箸が転んでもおかしい年頃の女性もいれば、何にでも腹を立てる老齢の男性もいるよね(@_@;)

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記15 道長薨去』(吉川弘文館,2022)

     十日、辛未。 火祭/大宋国商客、大宰大弐に唐物を奪われた旨を愁訴/
            隆家長女、七々日法会

    ・・・中将(藤原資平)が来た。「今日、初めて関白(藤原頼通)の邸第に参りました。
    まだ無力です」ということだ。また、云ったことには、「大宋国の商客が、初めて
    □□□。商客は大宰大弐(藤原惟憲)の為に、蔵人所の召しと称して、随身した唐物を
    召し取られたという愁文[うれえぶみ]を、唐物使の小舎人に託して進上しました」と
    云うことだ。頭中将(源顕基)が談った。或る人が云ったことには、「頭中将が云った
    ことには、『世間の様子を見させたところ、商客の愁訴は、益が無いのではないか』と
    いうことだ」と。盛算[じょうさん]阿闍梨が、初めて来た宋人の書を持って来た。
    商客(周)良史は、八月十五日に対馬島に来着した。次いで筑前怡土郡北崎に到着した。
    都督(惟憲)は今まで申さなかった。・・・

藤原実資の日記『小右記』の長元元年(1028年)10月10日条の一部を本書191~192頁から引いたが、
イミフなところも(@_@;) でも、古代の人が書いた文章だし、本書は現代人に解るように意訳したり
注釈を施したりもしないんだから、仕方がないことかな(^_^;) さて、この記事は10ヶ月後の長元2年
(1029年)7月の幾つかの記事に関係するのかな(@_@;) 先ずは11日条を本書268頁から(@_@;)

     十一日、戊辰。 前大宰大弐藤原惟憲[ママ]、財貨と共に入京/
             惟憲、白鹿[はくろく]を頼通に献上

    「昨夕、前大宰大弐惟憲の妻が入京した。すぐに内裏に参った」と云うことだ。
    「惟憲は、明後日、入洛する。随身した珍宝は、その数がわからない」と云うことだ。
    九国二島の物を、底を掃って奪い取った。唐物もまた、同じである。すでに恥を
    忘れたようなものである。近代は、富人[ふじん]のことを賢者とする。「惟憲は
    白鹿を関白(藤原頼通)に献上した」と云うことだ。或いは云ったことには、
    「高陽院[かやのいん]の内に放養した」と云うことだ。世は納得しなかった。また、
    云ったことには、「野鹿、家で飼ってはならない。忌まなければならない事である」
    ということだ。

「惟憲、献ずる所の白鹿、関白、高陽院に放ち養ふ事。」(『小記目録』の同日条)ということで、
この「白鹿」は実は「大宋国の商客」の物だったりして(@_@;) 「近代、富人を以て賢者と為す。」
はいつもの皮肉だな(^_^;) 続いて『小記目録』には「白鹿、高陽院に放つべき事。」とある16日条の
関係する件を本書270~271頁から(@_@;)

     十六日、癸酉。 年殻を祈る/伊賀守の申文を返却/白鹿天覧の可否

    ・・・頭中将(源)隆国が来て、関白[藤原頼通]の書状を伝えて云ったことには、
    「前大宰大弐が、白鹿を志してきた。ところが、後一条天皇から叡覧することにする
    との仰せが有った。もしかしたら、先ず諸卿に定め申させるべきであろうか。それとも
    御覧を経るべきであろうか。また、何処に放てばいいのであろう」ということだ。
    報じて云ったことには、「白鹿は上瑞[じょうずい]です。大宰府は、本来ならば
    大宰府解[だざいふげ]を進上しなければなりません。官は上奏に随ふものです。
    ところがその事を忘れて、内々にこれを献上してきました。道理は、そうであっては
    なりません。但し、延喜十七年に、備後国が白鹿を献上しました。奏覧の後、神泉苑に
    放たれました。その例によって天覧に備えても、何事が有るでしょうか。たとえその例
    が無いとはいっても、すでにこれは、上瑞の物です。憚りが有るわけはないのではない
    でしょうか。放養される処は、すでに神泉苑があります。ところが四面に垣がありません。
    山犬や里犬の為に、喰い殺されるでしょう。朱雀院の垣根は、神泉苑には及びません。
    やはり高陽院に放養されるのが、最も便宜が有るでしょう。また、これは朝廷に献上せず、
    内々に奉献してきたものです。高陽院の内に放養されるのが宜しいであろう事です。先年、
    孔雀と鵝鳥[がちょう]を、里第で飼われていました。その例は無いわけではありません。
    本来ならば仰せに従って、又々の仰せを待ち、諸卿が一緒に定め申すべきものです。
    ところが、苦熱の候、内裏に参る際に、行歩は耐え難く、参入することはできません。
    もしもやはり諸卿の議定を行なうのでしたら、他の人に命じられてください」と。
    頭中将が云ったことには、「この事は、昨夜、伝えられたものです。今日は関白は
    堅固の御物忌です。明朝、参って伝えるよう、戒め命じられたことが有ります。明朝、
    申すことにします」ということだ。

さり気な~く藤原頼通に対する批判も混じってるから、源隆国も困惑したかと(^_^;) それにしても、
「延喜十七年」の「例」とか、すぐに挙げたのかな(@_@;) 隆国を待たせて、調べたのかな(@_@;)
高陽院への「放養」を実資は助言してるが、11日条に「野鹿、家で飼ってはならない」とあるから、
「放養」とは「飼」うこととイコールではないということなのかな(@_@;) 続いて『小記目録』には
「白鹿の陣定の事。」とある17日条の関係する件を本書271~272頁から(@_@;)

     十七日、甲戌。 白鹿についての陣定/相撲召仰

    夜に入って、中納言(藤原資平)が来て云ったことには、「内大臣(藤原教通)、
    大納言(藤原)頼宗・(藤原)能信・(藤原)長家、中納言(藤原)実成・
    (藤原)経通・私(資平)・(源)師房・(藤原)定頼、参議(藤原)公成・
    (藤原)重尹が参入して、白鹿についてを定め申して云ったことには、『延喜十七年
    の例によって、天皇が御覧になることにする。その後、神泉苑に放つことにする』
    ということでした」と。私が思ったところは、大宰府が解文[げぶみ]を進上せず、
    ただ関白に献上してきた。まったく議定は行なわれてはならない。御覧になるという
    仰せが有るのならば、関白の許から覧じ奉られるべきであろう。御覧が終わって、
    返給されればよい。大宰府の解が無い白鹿は、まったく神泉苑に放たれてはならない。
    また、上瑞の物を朝廷に献上しない事は、その咎[とが]が有るであろう。ところが
    近代の事は、憚るところが無いわけではない。公卿の僉議[せんぎ]は、識者が傾き
    怪しむのではないか。・・・中納言が云ったことには、「今日、仁王会の欠請
    [けっしょう]を定めませんでした」と。瑞物は、まったく出て来るはずはない。
    かえって疑慮が有るであろう。延喜の聖代は、上瑞が有ったであろう。この白鹿の祥瑞は、
    何の故が有るのであろうか。怪しまなければならない、懼[おそ]れなければならない。
    驚かなければならない、慎しまなければならない。

神泉苑は「四面に垣」が無く「山犬や里犬の為に、喰い殺される」だろうから高陽院への「放養」を
実資は助言したのに無視され、「延喜十七年の例」のまま「神泉苑に放つ」ことになって激怒(^_^;)
実資の怒りの種は、大宰大弐藤原惟憲と関白藤原頼通の手続の瑕疵や不正だけじゃなくなった(^_^;)
「懼るべし。驚くべし、慎しむべし。」は何かに使えそうだな_φ( ̄^ ̄ )メモメモ んで、21日条の関係
する件を本書274頁から(@_@;)

     二十一日、戊寅。 山陰道相撲使、相撲人を随身/白鹿御覧

    ・・・山陰道使(身人部[むひとべの])保武が云ったことには、「・・・」と。
    ・・・「昨日、天皇は白鹿を御覧になりました。関白の随身二人が、これを引きました。
    その夜は滝口に預けて飼わせ、翌日、関白の邸第に返し遣わしました。御覧の間、
    左少将(藤原)資房は、御前に伺候しました」と。すぐに資房が申したところである。

ヘンなところがあるが、原文ママ(^_^;) んで、『小記目録』には「白鹿、神泉苑に放たるる事。」と
ある22日条を本書274頁から(@_@;)

     二十二日、己卯。 白鹿を神泉苑に放つ

    今日、白鹿を神泉苑に放たれた。延喜十七年の例によって行なったものか。
    神泉苑の垣は顚倒し、涯岸[がいがん]は無い。山犬や狼の餌食となるのか。

「豺狼の食と為るか」(´;ω;`)ウッ… 最初は手続の瑕疵や不正に怒ってたはずなのに完全に論点が
ズレても73歳の実資は怒り続ける(^_^;) 16日条の「先年、孔雀・・・を、里第で飼われていました」
とは頼通の父の藤原道長の小南第の孔雀のことかな(^_^;) 実資は孔雀が独りで産卵したことにも深い
関心を寄せてたし(藤原道長もまるで科学者の如く観察)、春日社に参った藤原定頼が鹿を射させた
ことに激怒してたし、話題の霊牛を見に行ってたし、実は実資は単なる動物好き・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

・「賢人右府」と言われている実資よりも、ホントは道長の方が読書家なのかもねエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-18

・もし公任も関白になり子の定頼まで関白になってたら定頼は殺生関白と呼・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;コロサレルゾ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-28

・藤原実資は実際には見に行ってるのに、説話上においては見に行かなかったことになっている(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-11-16
タグ:歴史
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

実資からすれば「シカし、腹が立つ」だったり(笑)。
藤原定頼が鹿を射させた人はまさに、シカく。
by tai-yama (2022-12-06 00:21) 

middrinn

実資、頼通をシカる!とか予想してましたが、ま、鐘一つですなC= (-。- ) フゥー
ちなみに、『小右記』には「供に在る武者、鹿を射る。」とありました(^_^;)
by middrinn (2022-12-06 06:31) 

df233285

なるほどねぇ。西暦1028年ともなると。その14年前
西暦1015年1月頃に、北宋の周文裔が持ち込んだ
輸入品は、孔雀・ガチョウもだけど、その他についても
白鹿のごとくに野犬・山犬・狼・盗賊の手に落ちる
状態だったのですね。西暦1034~5年10月(ユリ暦)前後
に、天はしし座流星雨を降らせて、「古代の自衛隊の
唐物輸送お祭り政策」や、その他を批判するというのも
道理といえば道理か? マクロには摂関落ち目。
by df233285 (2022-12-06 08:25) 

middrinn

となると、この「白鹿」も「大宋国の商客」から
「召し取」った「唐物」ということですか(^_^;)
大宰大弐は希望者の多い美味しいポストですから、
藤原惟憲のケースは特殊ではなく、献上品に加え、
記録に残ってない暗数的な「唐物」も、摂関家に
数多く伝わっているのかもしれませんね(^_^;)
この「白鹿」がそーゆー曰く付きの「唐物」なら
そもそも「上瑞」などは有り得なさそう(^_^;)
by middrinn (2022-12-06 09:28) 

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