文化伝播論的問題意識で読んできた『白氏文集』、そもそも何を調べるために借りたんだっけ(@_@;)
結構な数の記事を書いた気がするけど、当初の目的を達成しているのかどうかが全く判らない(@_@;)
今日は朝から身体がダルくてダルくて図書館に行けず、昼食後に寝なかったけど横になったぞ(@_@;)

【読んだ本】

犬養孝『万葉のいぶき』(新潮文庫,1983)所蔵本

なかなか興味深い論文が集まっていて読み応えのある森本元子編『和歌文学新論』(明治書院,1982
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-12-02 )(^^) 同書所収の島田良二による
「八代集における月について」も大変勉強になり、八代集に先立つ『万葉集』の歌も取り上げてて、
柿本人麿「去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年さかる」について「妻の死を悲しんで
詠んだ歌である。月は去年と変わらず照っているけれども妻は死んでいないと、月を見て妻の死を
悼んだ歌である。そこには月の不変に対して生命のはかなさが対比されている。」と論評(@_@;)
本書の「万葉の月」も同歌を取り上げていたし、神田秀夫『人麻呂歌集と人麻呂伝』(塙選書,1965
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-04-08 )に「・・・妻と見たのは慶雲二年
[705年]の秋の月で、その後、・・・三年[706年]の夏ごろ亡くなったのではなかろうか。」(^^)
『万葉集』の注釈書等を小生は一冊も持ってないので本来ならここで終わるところだが、念のため、
久保田淳(監修)『新日本古典文学大系 別巻 八代集総索引』(岩波書店,1995)で調べてみると、
『拾遺和歌集』にも入ってて、小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,
1990)の訳も引く(@_@;)

     妻にまかり後[をく]れて、又の年の秋、月を見侍て

    去年見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや遠ざかり

     去年見た秋の月は今も変わることなく照らしているが、
     一緒にこの月を見た、愛し合っていた妻は、ますます
     この世から遠ざかってゆくことだ。

小町谷照彦は脚注で〈八代集抄「文選・古詩に、去者日(以)疎といへる心に通ずる歌」。〉という
問題意識が近い指摘も紹介していた(なお、この指摘を小町谷照彦&倉田実[校注]『拾遺和歌集』
[岩波文庫,2021⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-06 ]は削除)(@_@;)
この柿本人麻呂の歌は、白居易(白楽天)の作品と同様に月の時間的同一性・不変性を詠んでいるが
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-28 )、モチ人麻呂は『白氏文集』が
伝来する前の時代の歌人(@_@;) この白詩に限られず、他の中国の漢詩文でも見られるテーマだとは
思うけど(@_@;) 『伊勢物語』に出てて『古今和歌集』で在原業平作とされた「月やあらぬ春や昔の
春ならぬ我が身一つはもとの身にして」、そもそも業平は〈漢詩文の才能無し〉と評された人物だし
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-03-27 )、人麿歌から着想かも(@_@;)

[追記220512]

島田良二論文が『拾遺和歌集』の件で人麿の同歌をちゃんと紹介してるのを見落としてましたm(__)m