読書の厄介なところは、一見よく調べてるようで手落ちがあることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
ちょっとネット検索しただけで「調べた!」とドヤ顔で言われるのもねぇ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本(バカチン?)】

川端善明&荒木浩(校注)『新日本古典文学大系41 古事談 続古事談』(岩波書店,2005)

源顕兼(編)伊東玉美(校訂・訳)『古事談 上』(ちくま学芸文庫,2021)の巻第一「王道后宮」の
四七「顕基出家の事」の訳の前半を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    /顕基中納言は後一条天皇の寵臣だった。天皇がお亡くなりになった後、
    「忠臣は二君に仕えない」と言って、四十九日の後、比叡山首楞厳院に登って
    剃髪入道した。発心した発端は、天皇がお亡くなりになった後、棺に燈が
    供えられていないのを見て、理由を聞くと、「照明などを担当する主殿司が、
    みな新天皇のお世話で出払っているので」とのことだった。これを聞いて、
    すぐさま発心したという。平生、常に白楽天の詩「古墓何れの世の人ぞ、
    姓と名とを知らず。化して道の傍[ほと]り土と為り、年々春草生ず」
    (古い墓はいつの時代の人のものだろう、姓も名も分からない。風化して
    路傍の土となり、毎年春の草が生える)の句を吟詠していた。また「ああ、
    無実の罪で配流され、その地で月を見たい」と言っていた。比叡山の麓、
    大原山に住み、疑いなく往生したであろう人だ。法名は円昭。まず横川に
    登って剃髪し、後に大原に移住したという。/・・・

風雅な源顕基の「罪なくて配所の月を見ばや」は過去に何度も取り上げたけど、今回気になったのは
「白楽天の詩」として引かれている「古墓何世人 不知姓与名 化為道傍土 年々春草生」(@_@;)

同書は注釈がスカスカなので(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-27 )、
「白楽天」に付した注4に「七七二-八四六。中唐の詩人。詩文集に『白氏文集』。」(←こんな注が
役に立つか?)とあるだけだし、浅見和彦&伊東玉美(責任編集)内田澪子&木下資一&高津希和子
&蔦尾和宏&土屋有里子&松本麻子&山部和喜『新注 古事談』(笠間書院,2010)42頁の頭注1は当該
詩句について〈白氏長慶集二・続古詩十首の第二「掩涙別郷里、飄颻将遠行……」の一節。〉と記す
のみなのに対して、流石、岩波の新体系と言うべきか、本書65頁の脚注17は次の通り(@_@;)

    白氏文集二・諷喩「続古詩十首」のうち。「古き墓何れの世の人ぞ、姓と名を知らず、
    化して道傍の土と為り、年々若草生ゆ」。第三句「道傍」は、十訓抄、発心集「路傍」。
    [古今]著聞集「路辺」。

他の説話集の同話・類話との異同の指摘は流石も、訓読文が『白氏文集』の原詩句のなら変(@_@;)
藤岡忠美(校注)『新日本古典文学大系29 袋草紙』(岩波書店,1995)の脚注を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    白氏文集二・続古詩十首の中の詩の一節。「道傍」は文集では「路傍」とある。
    旅中の感慨として人生の空しさをうたう詩。

藤岡忠美によると『白氏文集』の原詩句では「路傍」なのに、上記訓読文は「道傍」のまま(@_@;)
もし仮に上記訓読文が単に『古事談』に記されている詩句のだったとしても、他の説話集との異同に
言及しながら、『白氏文集』の原詩句と異なっていることに全く触れてないのは不審である(@_@;)
どちらにしても、川端善明と荒木浩は『白氏文集』を確認してないのではないかという疑惑(@_@;)

西尾光一&小林保治(校注)『新潮日本古典集成 古今著聞集 上』(新潮社,1983→2019新装版)は、
〈・・・この詩は後に『徒然草』にも引かれ、人間の無常を説く詩句として有名なもの。・・・〉と
頭注で指摘してたので、木藤才蔵(校注)『新潮日本古典集成 徒然草』(新潮社,1977)を披くと、
(前に取り上げた)「・・・/顕基中納言の・・・配所の月、罪なくて見ん事、・・・」が出てくる
第五段ではなく、第三十段の「・・・いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、・・・」
がソレで、同書の頭注四にも次のようにあるC= (-。- ) フゥー 「世」が「代」なのもあるのか(@_@;)

    『白氏文集』「続古詩十首」の第二、「古墓いづれの代の人ぞ 姓と名とを
    知らず 化して路傍の土となり 年年春草生ず」。