SSブログ

200828読んだ本

図書館の本も書店で貰った紙カヴァーを付けて読んでるが(コロナ対策的にも良さ気)、欠点があり、
どんな表紙カヴァーだったか印象が薄くなって、既に読了済のを間違えて再び借りてしまう(-ω-、)
今週借りて来た本、「また、つまらぬ物を読んでしまったorz」に出てた(ノ ̄皿 ̄)ノムダアシ!┫:・

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記4 敦成親王誕生』(吉川弘文館,2017)

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)、高かったが、
つまんね(-ω-、) 小生側のレディネスの問題かもしらんが(´ヘ`;) 途中までしか読んでないけど、
「作文会[さくもんかい]」が多い印象(@_@;) 巻末の「用語解説」には次のようにある(´・_・`)

    散文である「筆」に対して、詩や賦などの韻文である漢詩を作る会合。

倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)が研究紹介(´・_・`)

    ・・・/本間洋一氏によると、一条は村上天皇と並んで、王朝句題詩が形成され
    盛行する時期にあたり、詩文の興隆に大きく寄与したとのことである(「『類題
    古詩』(類聚句題抄)研究覚書」)。たしかに、一条はしばしば内裏において
    作文会を主催し、道長と並んで、王朝文化の外護者としての側面を持っていた。
    飯沼清子氏の集計によると、一条朝二十五年間に内裏において開かれた作文会は
    四十六回、特に長保・寛弘年間に四十四回で、道長邸で開かれた三十九回を
    上まわっている(「平安時代中期における作文の実態」)。/・・・

上には上がいるわけだが、藤原道長邸における寛弘2年(1005年)の作文会での出来事を(『小右記』
の同年3月29日条に〈・・・「左府に於いて作文有り。属文の卿相以下の文人、多く会す」と云々。〉
とあることが「摂関期古記録データベース」に)、本書3頁(同年4月)は次の如く記してる( ̄◇ ̄;)

     一日、戊寅。 作文会で伊周の詩に感涙/旬平座

    礼部[れいほう]納言(源俊賢)が伝え送って云ったことには、「昨日の作文会では、
    外帥[がいそち](藤原伊周)の詩は、句毎に感が有って、満座は涙を拭った。引出物
    〈「馬」ということだ。〉が有った」と。・・・

     二日、己卯。 道長・公任、和歌を贈答/河内国司申文

    前越後守朝臣(藤原尚賢)が云ったことには、「一昨日、左府(藤原道長)の作文会で、
    外帥の詩に述懐が有りました。上下の者は涕泣しました。主人(道長)感嘆しました。
    引出物が有りました。・・・

伊周の作品、知りたいよね(@_@;) ちなみに、前掲『一条天皇』は当時の状況を説明してる(´・_・`)

    ・・・/ところでこの頃、一条と道長は中関白家の復権に意を注いでいた。一条としては、
    中関白家を[中宮定子の子である]敦康[親王]の後見に相応しい立場に戻す必要を考えた
    のであろうし、道長としては、政権復帰の望みを絶った政敵に恨みを残されたくなかった
    のであろう。すでに長保四年(一〇〇二)に権中納言に復帰し(『公卿補任』)、この年の
    正月二十七日には除目の清書を奉仕していた隆家[伊周の弟]は、二月二十日には「左府の
    気色」によって勅授帯劒を聴されている。一方、一条は二十五日には宣旨を下して伊周の
    座次を、「大臣の下、大納言の上」と定めた。三月二十六日、伊周は昇殿を聴され、早速
    参内しているが、公卿社会の反応は、当然ながら冷ややかであった(『小右記』)。/・・・

こーゆー状況だったのに、伊周が作った詩に「満座は涙を拭った」「上下の者は涕泣しました。主人
(道長)感嘆しました。」というのだから、どんな作品だったのか知りたくなりませんかね(@_@;)
だけど、藤原実資は興味・関心が無いのか、その日記『小右記』には記録していないみたい(´ヘ`;)

こうなると、伊周の詩に「感嘆し」たとされる藤原道長の日記『御堂関白記』の出番ということで、
前掲『藤原道長「御堂関白記」(上)』を披いてみたキタ━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━!!!!

     二十九日、丁丑。 土御門第射儀/作文会

    巳剋の頃、帥(藤原伊周)が来た。土御門第の弓場殿において弓を射た。未剋から作文を
    行なった。題は、「花落ちて春、路に帰る」であった。

     一日、戊寅。

    辰剋の頃、人々は散会した。帥(藤原伊周)に引出物が有った。馬一疋であった。朝の間、
    小雨が降った。

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)、つまんね(;_;)

[追記200830]

wikiの「藤原伊周」の項を見たら、「作品」として次の漢詩が出てたけど、題的にコレがそうかも(^^)

      題「花落春歸路」

     春歸不駐惜難禁 花落紛紛雲路深
     委地正應隨景去 任風便是趁蹤尋
     枝空嶺徼霞消色 粧脆溪閑鳥入音
     年月推遷齡漸老 餘生只有憶恩心

      — 本朝麗藻・巻上・春部、深を以て韻となす

タグ:歴史
コメント(12) 
共通テーマ:

コメント 12

ニッキー

一度読んだ本をまた選んだと知った時は結構ショックですよねぇ(*_*)
図書館だとショックで済みますが、本屋で買って帰って
読み始めて「あれ?」ってなった時のダメージったらもう( ;´Д`)
カバーをするのも良し悪しですねぇ(⌒-⌒; )
by ニッキー (2020-08-28 22:06) 

ナベちはる

本にカバーをするのも、良いことばかりではないですね((+_+))
by ナベちはる (2020-08-29 01:27) 

middrinn

書名が同じで巻数が違うだけの続き物は、
ニッキー様、間違えちゃいますね(^_^;)
by middrinn (2020-08-29 05:03) 

middrinn

ただ、図書館の本を傷めないためにも、
ナベちはる様、カヴァー推奨(^_^;)
by middrinn (2020-08-29 05:04) 

そら

折角だからもう一度読みますか(^^;
by そら (2020-08-29 08:28) 

middrinn

前向きですね(〃'∇'〃) 再読は初読の時とは違ったものを得られたり(^^)
そら様が昔泣かした女性の生き霊がEVのボタン押したのかも((;゚Д゚)ヒィィィ!
by middrinn (2020-08-29 12:15) 

tai-yama

嘗てのライバルであり、法王に矢を向けたのに伊周が中央に復帰
できたのは、漢詩の才のおかげだったり(笑)。
「御堂関白記」(上)期待したのに内容か無いようと・・・
by tai-yama (2020-08-29 18:54) 

middrinn

漢詩文に自信があったのか、敦成親王(後一条天皇)の百日の儀の宴で、
公卿たちが詠んだ歌の序題を藤原行成が書こうとしたところ、その筆を
伊周が取り上げて書いた序題は、内容的にも問題になりましたよ(^_^;)
by middrinn (2020-08-29 19:40) 

df233285

そのような話があるんですか。私も判った方が、世の為人の為に
一票。当然和歌の表現手法は、やり方可能性大量でしょうから。
仮説「伊周の作品」という議論が出てきたら、研究者一人ひとり
に1仮説有りと、素人ながら常識的に理解するようにしますよ。
その分野に絡んで無くても、

”研究者〇〇氏仮説「1005年藤原伊周の和歌」”と言った表現で
のそうした研究紹介を、他人に話すのが、妥当で常識的な所

なんでしょうよねぇ。

by df233285 (2020-08-29 20:30) 

middrinn

「全米が泣いた!」と宣伝されている映画を観てみたいと思うのと同様に、
藤原伊周が作った漢詩を知りたいと思うのが、やはり人情ですよね(^_^;)
もしかしたら作文会の出席者あるいは伝聞で誰かの日記にあるかも(^_^;)
『枕草子』等に残っている伊周の和歌等を分析して、その傾向・特徴から、
伊周になったつもりで研究者が再現(モチ創作)するのでもいいです^_^;
by middrinn (2020-08-29 20:54) 

yokomi

以前は貰っていた紙カバーが、今では有料となりました。チェーンの大きな書店(>_<) ビニールのレジ袋有料化と同時なので、有料化の真意が見えた気がしました(^_^;)
by yokomi (2020-08-30 01:10) 

middrinn

世知賢い書店で、世知辛い世の中に(+_+)
by middrinn (2020-08-30 07:15) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。