ショックなことの多い一日(;_;) 3万余の古本は買う必要なさそうなことが判ったのは良かった(..)
【読んだ本】
久保田淳(校注・訳)『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集 とはずがたり』(小学館,1999)
高倉天皇と中宮(平清盛女の徳子で後の建礼門院)について建礼門院右京大夫が詠んだ歌「雲の上に
かかる月日のひかり見る身の契りさへうれしとぞ思ふ」(糸賀きみ江[全訳注]『建礼門院右京大夫
集』[講談社学術文庫,2009])で本書所収の久保田淳(校注・訳)『建礼門院右京大夫集』の頭注
は〈・・・「月」は中宮、「日」は天皇の比喩・・・〉と説明するけど(本書16頁)、詞書で天皇、
中宮の順に叙述して和歌では「月日」なんだから、「月」は天皇、「日」は中宮の比喩と解するのが
自然と先日は指摘(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-03-25 )(@_@;)
というのは、建礼門院右京大夫は高倉院を「月」に喩えて偲んだ歌も詠んでて、同歌は『平家物語』
にも引かれているが、糸賀きみ江・前掲書から訳とともに引く(@_@;)
「高倉院かくれさせおはしましぬ」と聞きしころ、見なれまゐらせし世のこと
かずかずにおぼえて、及ばぬ御事ながらも、限りなくかなしく、「なにごとも
げに末の世にあまりたる御事にや」と人の申すにも、
雲のうへに ゆくすゑとほく 見し月の ひかり消えぬと 聞くぞかなしき
「高倉院がお隠れあそばされた」とお聞きしたころ、お見馴れ申しあげた御治世
のことがあれこれと思い出されて、恐れ多い雲の上の御事とはいえ、この上なく
悲しくて、「なにごとも本当に、末の世にはもったいないほどご立派なご様子で
あったことよ」などと人が申すのにも、
宮中に 末久しくお栄えになるだろうと 仰ぎ見ていた院が、お隠れになったと
聞くのは悲しいことでありますよ
この歌の「月」を糸賀きみ江・前掲書も久保田淳・前掲書の頭注8も「高倉院をたとえる。」(本書
98頁)としており、それなら上記歌の「月日」も、「月」=高倉天皇、「日」=中宮が自然(@_@;)
ただ、糸賀きみ江・前掲書から訳とともに引くが、この歌に続いて載ってる次の歌がネック(@_@;)
中宮の御心のうち、おしはかりまゐらせて、いかばかりかとかなし。
かげならべ 照る日のひかり かくれつつ ひとりや月の かき曇るらむ
中宮さまのお心のうちをお察し申しあげて、どれほどおつらいことかと
思うと悲しくて、
大空の日月のように、光り輝くお姿をならべておいでになった太陽にもたとえられる
院がお隠れになって、おひとり残された月のような中宮さまは、悲しみの涙にかき
くれていらっしゃることでしょう
「照る日」を糸賀きみ江・前掲書が〈高倉院をたとえ、「月」は、この歌では中宮をたとえた。〉と
注釈し、久保田淳・前掲書は、頭注4で「月」を「ここでは中宮の比喩。」(本書99頁)と、頭注3で
「照る日の光」を〈高倉院をたとえる。「草深き霞の谷に影かくし照る日のくれしけふにやはあらぬ」
(古今・哀傷 文屋康秀)。〉と説明する(本書98~99頁)(@_@;) ともに「では」とあるけど、
同一人物が連続して詠んだ歌で比喩が異なるのは不自然で、この歌は、建礼門院右京大夫ではなく、
「なにごともげに末の世にあまりたる御事にや」と申す「人」が詠んだとは解せないのかなぁ(^_^;)
とまれ、一貫性のある解釈は可能なのか他の歌人の歌も少しばかり探ってみることにしたい(@_@;)
[追記240503]
糸賀きみ江・前掲書に建礼門院を「月」に喩えた次の歌も載っていることを見落としてましたm(__)m
あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき
その昔雲の上の宮中で まばゆい月のようにお見上げ申した中宮さま 今は
このような寂しい山奥にお住まいのご様子が 何ともおいたわしく悲しい
杉本圭三郎(全訳注)『平家物語(十二)』(講談社学術文庫,1991)を読んでたら、徳大寺左大臣
実定の次の歌が出ていて、その語釈で「あふぎみし」の歌も指摘されてた(^_^;)
いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺の里
むかしははなやかな宮中におられたころは月にたとえた君であったのに、
いまはその面影もなく、深い山辺の里でわびしくくらしておられることだ
【読んだ本】
久保田淳(校注・訳)『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集 とはずがたり』(小学館,1999)
高倉天皇と中宮(平清盛女の徳子で後の建礼門院)について建礼門院右京大夫が詠んだ歌「雲の上に
かかる月日のひかり見る身の契りさへうれしとぞ思ふ」(糸賀きみ江[全訳注]『建礼門院右京大夫
集』[講談社学術文庫,2009])で本書所収の久保田淳(校注・訳)『建礼門院右京大夫集』の頭注
は〈・・・「月」は中宮、「日」は天皇の比喩・・・〉と説明するけど(本書16頁)、詞書で天皇、
中宮の順に叙述して和歌では「月日」なんだから、「月」は天皇、「日」は中宮の比喩と解するのが
自然と先日は指摘(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-03-25 )(@_@;)
というのは、建礼門院右京大夫は高倉院を「月」に喩えて偲んだ歌も詠んでて、同歌は『平家物語』
にも引かれているが、糸賀きみ江・前掲書から訳とともに引く(@_@;)
「高倉院かくれさせおはしましぬ」と聞きしころ、見なれまゐらせし世のこと
かずかずにおぼえて、及ばぬ御事ながらも、限りなくかなしく、「なにごとも
げに末の世にあまりたる御事にや」と人の申すにも、
雲のうへに ゆくすゑとほく 見し月の ひかり消えぬと 聞くぞかなしき
「高倉院がお隠れあそばされた」とお聞きしたころ、お見馴れ申しあげた御治世
のことがあれこれと思い出されて、恐れ多い雲の上の御事とはいえ、この上なく
悲しくて、「なにごとも本当に、末の世にはもったいないほどご立派なご様子で
あったことよ」などと人が申すのにも、
宮中に 末久しくお栄えになるだろうと 仰ぎ見ていた院が、お隠れになったと
聞くのは悲しいことでありますよ
この歌の「月」を糸賀きみ江・前掲書も久保田淳・前掲書の頭注8も「高倉院をたとえる。」(本書
98頁)としており、それなら上記歌の「月日」も、「月」=高倉天皇、「日」=中宮が自然(@_@;)
ただ、糸賀きみ江・前掲書から訳とともに引くが、この歌に続いて載ってる次の歌がネック(@_@;)
中宮の御心のうち、おしはかりまゐらせて、いかばかりかとかなし。
かげならべ 照る日のひかり かくれつつ ひとりや月の かき曇るらむ
中宮さまのお心のうちをお察し申しあげて、どれほどおつらいことかと
思うと悲しくて、
大空の日月のように、光り輝くお姿をならべておいでになった太陽にもたとえられる
院がお隠れになって、おひとり残された月のような中宮さまは、悲しみの涙にかき
くれていらっしゃることでしょう
「照る日」を糸賀きみ江・前掲書が〈高倉院をたとえ、「月」は、この歌では中宮をたとえた。〉と
注釈し、久保田淳・前掲書は、頭注4で「月」を「ここでは中宮の比喩。」(本書99頁)と、頭注3で
「照る日の光」を〈高倉院をたとえる。「草深き霞の谷に影かくし照る日のくれしけふにやはあらぬ」
(古今・哀傷 文屋康秀)。〉と説明する(本書98~99頁)(@_@;) ともに「では」とあるけど、
同一人物が連続して詠んだ歌で比喩が異なるのは不自然で、この歌は、建礼門院右京大夫ではなく、
「なにごともげに末の世にあまりたる御事にや」と申す「人」が詠んだとは解せないのかなぁ(^_^;)
とまれ、一貫性のある解釈は可能なのか他の歌人の歌も少しばかり探ってみることにしたい(@_@;)
[追記240503]
糸賀きみ江・前掲書に建礼門院を「月」に喩えた次の歌も載っていることを見落としてましたm(__)m
あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき
その昔雲の上の宮中で まばゆい月のようにお見上げ申した中宮さま 今は
このような寂しい山奥にお住まいのご様子が 何ともおいたわしく悲しい
杉本圭三郎(全訳注)『平家物語(十二)』(講談社学術文庫,1991)を読んでたら、徳大寺左大臣
実定の次の歌が出ていて、その語釈で「あふぎみし」の歌も指摘されてた(^_^;)
いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺の里
むかしははなやかな宮中におられたころは月にたとえた君であったのに、
いまはその面影もなく、深い山辺の里でわびしくくらしておられることだ