240120読んだ本
若宮詩暢も大人になればママみたいな超美人になるんだろうけど更に年を取ると・・((;゚Д゚)ヒィィィ!
【読んだ本】
宇野直人&江原正士『漢詩を読む 3 白居易から蘇東坡へ』(平凡社,2011)所蔵本
本書は張継の「楓橋夜泊」を取り上げているのだが、宇野直人の発言=解説がチト気になる(@_@;)
月落烏啼霜満天 月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ
江楓漁火対愁眠 江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外 寒山寺
夜半鐘声到客船 夜半の鐘声 客船に到る
旅の詩です。「楓橋」は江蘇省蘇州市にかかる橋で、今もありますが、唐代と同じもの
かどうかはわかりません。何かの折に楓橋に舟泊まりした、秋の夜の景色と感想を詠み
込んでいます。/・・・/・・・/続いて後半、鐘の音が聞こえます。「舟のそばの、
姑蘇の町はずれにある名刹寒山寺から、真夜中の鐘の音[ね]が、私の乗る舟に聞こえ
て響いた」。・・・
植木久行が内外の文献に基づいて張継「楓橋夜泊」は「寒山寺」の「楓橋」とは無関係であることを
既に指摘してて(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-10-05 )、例えば、
植木久行『唐詩の風景』(講談社学術文庫,1999)から引く(@_@;)
・・・/詩中の「寒山寺」は、従来、楓橋の東南約二百メートルにある寺を指し、
かつて唐代の奇僧(詩僧)寒山が住んだための命名とされてきた。しかしこの説明は、
すこぶる疑わしい。そもそも寒山の事跡が、きわめてあいまいであり、本詩を収める
最古のテキスト、唐の高仲武『中興間気集』巻下には、「夜泊松江」(夜 松江に泊す)
と題するからである。松江とは、太湖から流れ出て、蘇州の南郊五十里(約二十五キロ)
を通って東海へとそそぐ呉松江(蘇州河)をいう。/この疑問をほぼ解決したのは、
三沢玲爾「『姑蘇城外寒山寺』小考」(『八代学院大学紀要』第三十号)と楊明「張継
詩中寒山寺弁」(『中華文史論叢』一九八七年二・三合刊)である。この二論文の主張
を要約すれば、ほぼ以下のようになろう。①寺の名称としての寒山寺は、早くとも南宋
(もしくは明代)以降であり、それ以前は、妙利普明塔院・普明禅院・楓橋寺などと
呼ばれていた。②『中興間気集』巻下に、「夜 松江に泊す」と題する(ちなみに、北宋
の『文苑英華』巻二九二〔宋版〕には、すでに「楓橋夜泊」と題する)。③欧陽脩
『六一詩話』(『方輿勝覧』巻二)に、第三句を「姑蘇台下寒山寺」に作る。姑蘇台は
蘇州の西南、太湖付近にあった(前出)。④詩中の「寒山寺」は本来、固有名詞ではなく、
後世の人が寺の名と誤解し、その論拠として楓橋寺の存在を指摘した。しかし寺は山の上
にないので、寒山・拾得の伝説にこじつけたのだ──など。/要するに、張継の詩は、
古く「夜 松江に泊す」と題されるように、蘇州の西南、松江に舟どまりしたとき、太湖
沿岸の山寺の鐘を聞いて作られた詩であり、楓橋とも全く無関係な作品である。/この説
は、充分説得力をもつ。・・・
「この説」について植木久行は松浦友久(編著)植木久行&宇野直人&松原朗(著)『漢詩の事典』
(大修館書店,1999)の「Ⅲ 名詩のふるさと(詩跡)」の「7 江蘇省」の「楓橋・寒山寺」の項
でも紹介してたし(同書427~428頁)、植木久行『唐詩物語──名詩誕生の虚と実と』(大修館書店
あじあブックス,2002)の「寒山寺の幻影――張継」でも詳論している(@_@;) 宇野直人は植木久行
と同じ大学院を修了し年齢は四歳下だが、本書巻末の「主要参考文献」には宇野直人自身も執筆する
『漢詩の事典』は挙げられるも『唐詩の風景』『唐詩物語──名詩誕生の虚と実と』は無い(@_@;)
宇野直人にとって「この説は、充分説得力をも」たなかったのか、宇野直人が不勉強なのか(@_@;)
聞き手が素人=非研究者・非専門家ゆえ舐めてかかって下調べせずに臨んでるという疑念も(@_@;)
・49巻の詩暢の祖母よ、張継は「夜空の星を白い霜に見立て」てないぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-10-14
【読んだ本】
宇野直人&江原正士『漢詩を読む 3 白居易から蘇東坡へ』(平凡社,2011)所蔵本
本書は張継の「楓橋夜泊」を取り上げているのだが、宇野直人の発言=解説がチト気になる(@_@;)
月落烏啼霜満天 月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ
江楓漁火対愁眠 江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外 寒山寺
夜半鐘声到客船 夜半の鐘声 客船に到る
旅の詩です。「楓橋」は江蘇省蘇州市にかかる橋で、今もありますが、唐代と同じもの
かどうかはわかりません。何かの折に楓橋に舟泊まりした、秋の夜の景色と感想を詠み
込んでいます。/・・・/・・・/続いて後半、鐘の音が聞こえます。「舟のそばの、
姑蘇の町はずれにある名刹寒山寺から、真夜中の鐘の音[ね]が、私の乗る舟に聞こえ
て響いた」。・・・
植木久行が内外の文献に基づいて張継「楓橋夜泊」は「寒山寺」の「楓橋」とは無関係であることを
既に指摘してて(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-10-05 )、例えば、
植木久行『唐詩の風景』(講談社学術文庫,1999)から引く(@_@;)
・・・/詩中の「寒山寺」は、従来、楓橋の東南約二百メートルにある寺を指し、
かつて唐代の奇僧(詩僧)寒山が住んだための命名とされてきた。しかしこの説明は、
すこぶる疑わしい。そもそも寒山の事跡が、きわめてあいまいであり、本詩を収める
最古のテキスト、唐の高仲武『中興間気集』巻下には、「夜泊松江」(夜 松江に泊す)
と題するからである。松江とは、太湖から流れ出て、蘇州の南郊五十里(約二十五キロ)
を通って東海へとそそぐ呉松江(蘇州河)をいう。/この疑問をほぼ解決したのは、
三沢玲爾「『姑蘇城外寒山寺』小考」(『八代学院大学紀要』第三十号)と楊明「張継
詩中寒山寺弁」(『中華文史論叢』一九八七年二・三合刊)である。この二論文の主張
を要約すれば、ほぼ以下のようになろう。①寺の名称としての寒山寺は、早くとも南宋
(もしくは明代)以降であり、それ以前は、妙利普明塔院・普明禅院・楓橋寺などと
呼ばれていた。②『中興間気集』巻下に、「夜 松江に泊す」と題する(ちなみに、北宋
の『文苑英華』巻二九二〔宋版〕には、すでに「楓橋夜泊」と題する)。③欧陽脩
『六一詩話』(『方輿勝覧』巻二)に、第三句を「姑蘇台下寒山寺」に作る。姑蘇台は
蘇州の西南、太湖付近にあった(前出)。④詩中の「寒山寺」は本来、固有名詞ではなく、
後世の人が寺の名と誤解し、その論拠として楓橋寺の存在を指摘した。しかし寺は山の上
にないので、寒山・拾得の伝説にこじつけたのだ──など。/要するに、張継の詩は、
古く「夜 松江に泊す」と題されるように、蘇州の西南、松江に舟どまりしたとき、太湖
沿岸の山寺の鐘を聞いて作られた詩であり、楓橋とも全く無関係な作品である。/この説
は、充分説得力をもつ。・・・
「この説」について植木久行は松浦友久(編著)植木久行&宇野直人&松原朗(著)『漢詩の事典』
(大修館書店,1999)の「Ⅲ 名詩のふるさと(詩跡)」の「7 江蘇省」の「楓橋・寒山寺」の項
でも紹介してたし(同書427~428頁)、植木久行『唐詩物語──名詩誕生の虚と実と』(大修館書店
あじあブックス,2002)の「寒山寺の幻影――張継」でも詳論している(@_@;) 宇野直人は植木久行
と同じ大学院を修了し年齢は四歳下だが、本書巻末の「主要参考文献」には宇野直人自身も執筆する
『漢詩の事典』は挙げられるも『唐詩の風景』『唐詩物語──名詩誕生の虚と実と』は無い(@_@;)
宇野直人にとって「この説は、充分説得力をも」たなかったのか、宇野直人が不勉強なのか(@_@;)
聞き手が素人=非研究者・非専門家ゆえ舐めてかかって下調べせずに臨んでるという疑念も(@_@;)
・49巻の詩暢の祖母よ、張継は「夜空の星を白い霜に見立て」てないぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-10-14
「④詩中の「寒山寺」は本来、固有名詞ではなく、後世の人が寺の名
と誤解し」なので、間違えるのは仕方ないのかも・・・・
上記解釈をさせるのは「孔明の罠」ならぬ「張継の罠」とも(笑)。
by tai-yama (2024-01-20 18:59)
前掲『唐詩物語──名詩誕生の虚と実と』によると、南宋の初めの張邦基の
『墨荘漫録』は「楓橋夜泊」の詩題でも「寒山寺」と「間違える」ことなく
ちゃんと「寒山の寺」と解していたと楊論文が指摘してるようです(^_^;)
by middrinn (2024-01-21 05:41)