231218読んだ本【バカチン】
このボスに従っててもポストは得られぬと見限って、別のボスの歓心を買おうとしたのかな(@_@;)
【読んだ本(バカチン)】
川村晃生(校注)『和泉古典叢書5 後拾遺和歌集』(和泉書院,1991)所蔵本
長保元年(999年)9月10日に藤原実資が嵯峨・大井へ赴いて和歌会を催した際に同行したメンバーに
源兼澄も入っているので(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )、
源兼澄は実資派と思ったら、寛弘3年(1006年)4月4日に源兼澄は藤原道長に二千巻(千余巻?)の
書物を献上してる(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-08 )(@_@;)
この行動を理解する上で補助線となりそうなのが源兼澄の『後拾遺和歌集』入集歌であり、当該歌を
犬養廉&平野由紀子&いさら会『笠間注釈叢刊18 後拾遺和歌集新釈 上巻』(笠間書院,1996)の訳
(担当は木村由美子)で引く(⌒~⌒)
ためよしいがにまかりはべりけるに人々餞たまひけるにかはらけとりて
かくしつつおほくのひとはをしみきぬわれをおくらんことはいつぞは
橘為義が伊賀に下りますので人々が送別の宴を催しましたが、その時に杯をとり
詠みました歌
これまでずっとこのように私は別れを惜しみながら地方に赴任していく多くの友人を
送ってきた。友人が私を送るようになるのはいつのことだろう。
同書は「橘為義が伊賀守に任ぜられ下向した。長保三年(一〇〇一)か。」と指摘している(@_@;)
wikiの「源兼澄」の項を見る限り、長保3年(1001年)正月15日に若狭守の任を終えた源兼澄が次に
受領(加賀守)となったのは10年以上も後の長和元年(1012年)4月9日ということにヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
この歌が『本朝文粋』に入る大江以言の詩を踏まえたものであることは、手元の『後拾遺和歌集』の
各注釈書が揃って指摘しており、『和漢朗詠集』に入るその摘句を菅野禮行(校注・訳)『新編日本
古典文学全集19 和漢朗詠集』(小学館,1999)から同書の訳とともに引く(⌒~⌒)
楊岐路滑らかなり 吾の人を送ること多年
李門浪高し 人の我を送ること何れの日ぞ
あなた方は難関の省試を通過し、これから赴任して行く道のりは
おそらく無事であるだろう。私はこうして同学の人たちが地方に
赴任するのを長年にわたって見送ってきた。しかし、学問の道で
登竜門をくぐることは大変難しい。今度は私が晴れて人々に見送
られることになるのは、果していつの日であろう。
つまり、源兼澄は自分が(再び)受領になれるのは一体いつのことだろうかと嘆いている歌なのに、
川村晃生は本書の頭注欄において「明日は我身の餞の宴。」とΣ( ̄ロ ̄lll)ニャンじゃそりゃ!?
なお、小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)の「人名索引」の
源兼澄の項の説明には次の件がある(⌒~⌒)
・・・祖父公忠・伯父信明は後撰集作者,叔父の観教・勝観・寛祐は拾遺集作者,
というふうに歌人の家系にあり,また大中臣能宣の女婿であり,・・・
源信明の孫である源道済の名前も出してほしかった(^_^;) 『小右記』に源兼澄の牛車が藤原能信の
従者たちによって石で打たれた事件が出てて、大中臣能宣の子の輔親の牛車も一緒に被害に遭ってる
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-23 )(^_^;) チト気になる点が
あって源兼澄を調べたら、『栄花物語』『袋草紙』に興味深いエピソードもあった_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
【読んだ本(バカチン)】
川村晃生(校注)『和泉古典叢書5 後拾遺和歌集』(和泉書院,1991)所蔵本
長保元年(999年)9月10日に藤原実資が嵯峨・大井へ赴いて和歌会を催した際に同行したメンバーに
源兼澄も入っているので(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )、
源兼澄は実資派と思ったら、寛弘3年(1006年)4月4日に源兼澄は藤原道長に二千巻(千余巻?)の
書物を献上してる(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-08 )(@_@;)
この行動を理解する上で補助線となりそうなのが源兼澄の『後拾遺和歌集』入集歌であり、当該歌を
犬養廉&平野由紀子&いさら会『笠間注釈叢刊18 後拾遺和歌集新釈 上巻』(笠間書院,1996)の訳
(担当は木村由美子)で引く(⌒~⌒)
ためよしいがにまかりはべりけるに人々餞たまひけるにかはらけとりて
かくしつつおほくのひとはをしみきぬわれをおくらんことはいつぞは
橘為義が伊賀に下りますので人々が送別の宴を催しましたが、その時に杯をとり
詠みました歌
これまでずっとこのように私は別れを惜しみながら地方に赴任していく多くの友人を
送ってきた。友人が私を送るようになるのはいつのことだろう。
同書は「橘為義が伊賀守に任ぜられ下向した。長保三年(一〇〇一)か。」と指摘している(@_@;)
wikiの「源兼澄」の項を見る限り、長保3年(1001年)正月15日に若狭守の任を終えた源兼澄が次に
受領(加賀守)となったのは10年以上も後の長和元年(1012年)4月9日ということにヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
この歌が『本朝文粋』に入る大江以言の詩を踏まえたものであることは、手元の『後拾遺和歌集』の
各注釈書が揃って指摘しており、『和漢朗詠集』に入るその摘句を菅野禮行(校注・訳)『新編日本
古典文学全集19 和漢朗詠集』(小学館,1999)から同書の訳とともに引く(⌒~⌒)
楊岐路滑らかなり 吾の人を送ること多年
李門浪高し 人の我を送ること何れの日ぞ
あなた方は難関の省試を通過し、これから赴任して行く道のりは
おそらく無事であるだろう。私はこうして同学の人たちが地方に
赴任するのを長年にわたって見送ってきた。しかし、学問の道で
登竜門をくぐることは大変難しい。今度は私が晴れて人々に見送
られることになるのは、果していつの日であろう。
つまり、源兼澄は自分が(再び)受領になれるのは一体いつのことだろうかと嘆いている歌なのに、
川村晃生は本書の頭注欄において「明日は我身の餞の宴。」とΣ( ̄ロ ̄lll)ニャンじゃそりゃ!?
なお、小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)の「人名索引」の
源兼澄の項の説明には次の件がある(⌒~⌒)
・・・祖父公忠・伯父信明は後撰集作者,叔父の観教・勝観・寛祐は拾遺集作者,
というふうに歌人の家系にあり,また大中臣能宣の女婿であり,・・・
源信明の孫である源道済の名前も出してほしかった(^_^;) 『小右記』に源兼澄の牛車が藤原能信の
従者たちによって石で打たれた事件が出てて、大中臣能宣の子の輔親の牛車も一緒に被害に遭ってる
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-23 )(^_^;) チト気になる点が
あって源兼澄を調べたら、『栄花物語』『袋草紙』に興味深いエピソードもあった_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
下野守だったら、例え地方への任官だとしても、大出世
なのに・・・・。下野以外なら左遷か(笑)。
私も宇都宮移動なので出世っ(左遷ではない)。
by tai-yama (2023-12-18 23:03)
どうせ船橋にいらした頃には下総守と(^_^;)
春にはもっと田舎へ飛ば・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2023-12-19 05:19)
西暦千年前後の、ときの貴族のかなりは。趣味・主義・主張は
実資寄りだったが、財を肥やすには道長頼りという人物が多かった
のでは?
by df233285 (2023-12-19 07:06)
実資の小野宮家はメチャ裕福だったらしいですけどね(@_@;)
道長のお陰で受領になれても、土御門第の再建や法成寺の建立
など道長の私的な造営事業に駆り出されるから出費が(^_^;)
by middrinn (2023-12-19 09:39)