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230407読んだ本【バカチン】

30分過ぎても来ないのでメールしたら忘れてたと言われたことを事ある毎に持ち出している(^_^;)
昨日は前日の疲れがとれず一日中ぐったり、今日は8時に着くも3番で、15分で手続きして9時30分
に帰宅したけど、再び疲れてしまったから、これで3日続けてポイ活ノルマを達成できず(´ヘ`;)

【読んだ本(バカチン)】

駒田信二『中国故事 はなしの話』(文春文庫,1981)所蔵本

「男女の話」の章(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-03-04 )を読んで、
「語源の話」の章(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-03-10 )も読んで、
更に「夢の話」の章(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-03-15 )も読み、
「賢愚の話」の章(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-03-20 )に続いて、
「信義の話」の章を読んだ(^_^;) 同章は「刎頸の交」(←『史記』廉頗藺相如列伝)、「莫逆の交
(莫逆の友、莫逆の契、莫逆)」(←『荘子』大宗師篇の二つの寓話)、「管鮑の交」(←『史記』
管晏列伝、cf.『列子』力命篇、ex.杜甫「貧交行」)、「水魚の交」(←『三国志』蜀志諸葛亮伝)、
「尾生の信」、「宋襄の仁」(『十八史略』の春秋戦国の項、cf.『左伝』の僖公二十二年の項、cf.
『韓非子』外儲説篇)、「吮疽の仁」が取り上げられている_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

    ・・・/この話は『荘子』の盗跖篇、『戦国策』の燕策、『淮南子』の説林訓篇
    [※「随牛の誕[いつわり]」は『左伝』の僖公三十三年の項]、『史記』の
    蘇秦列伝などに引かれているが、「尾生の信」が信義に厚いことのたとえとして
    用いられているのは『史記』の蘇秦列伝だけである。/〈・・・〉/これは蘇秦
    が燕王に会って自説を述べたときの言葉で、尾生を信義に厚い男としてほめ、
    そして、自分も尾生に劣らず信義に厚いと、自分を売り込んだのである。/・・・


    ・・・/これは『史記』の孫子呉起列伝に記されているところである。ここから
    「吮疽の仁」という言葉が生まれた。大将が士卒を厚くいたわること、長上者が
    部下の者を深く愛することのたとえとして使われる言葉である。だが、司馬遷が
    呉起の士卒に対するその行為を「仁」とみなしているのではないことは、いうまで
    もない。/

今まで読んできた本書の話はほとんど知っていたので出典を一切確認してこなかった(^_^;) 「吮疽
[せんしょ]の仁」を、久しぶりに原文&読み下し文も載ってる『中国の思想』刊行委員会(編訳)
奥平卓&守屋洋(訳)『司馬遷 史記Ⅱ 乱世の群像』(徳間書店,1972)の訳で確認してみたけど、
「いうまでもない」と言われても小生には全く解らんかった(^_^;) しかし、『史記』の蘇秦列伝の
「尾生の信」に関する件に対する駒田信二の理解はチトおかしいかと(@_@;) 斉が燕から十の都邑
を奪ったので、燕王から頼まれた蘇秦は斉王を説いて都邑を返還させたにもかかわらず、燕王が蘇秦
に冷たく元の官位にもつけなかったので、蘇秦が燕王に会見した場面を同書の訳(一部の漢字は字体
が異なる)で引く(@_@;)

    ・・・/「わたくしは、しがない東周の田舎者、王に対してはこれという功績もござい
    ませんでした。それなのに王は、このわたくしめを親しくご引見になり、斉に使いせよ
    との大任まで与えてくださいました。幸いわたくしは、首尾よく斉軍を撤退させ、
    奪われた土地まで取り戻してまいりました。かくなるうえは、よりいっそうのご信任を
    いただいてしかるべきかと存じますが、帰ってみれば、優遇どころか旧職にも復して
    いただけません。これはきって、わたくしのことを信用のおけぬ曲者だと中傷する者が
    いたからにちがいありません。しかし、わたくしが曲者だとすれば、むしろ王にとっては
    幸いなこと。〝忠信はわが身のため、進取は人のため〟という諺があります。また、斉王
    を説き伏せましたのも、けっしてたばかりを申し上げてのことではありません。私は
    老いた母を東周に残してまいりましたが、それは、自己を捨て、進取を行なうためで
    あります。いまかりに、曾参のような親孝行な人物、伯夷のような清廉な人物、尾生の
    ような純真な人物がいたといたします。この三人が王に仕えるとしたら、どうでしょうか」
    /「願ってもないことだ」/「曾参のような孝行息子は、一晩たりとも親のもとを離れて
    外泊いたしません。このような人物をはるばる小国燕につれてきて、明日をも知れぬ王に
    仕えさせることができましょうか。伯夷は、義を守って孤竹国の世継ぎの地位を受けず、
    武王の臣下となることも肯んぜず、侯に封ぜられることをも辞退して、首陽山のふもとで
    餓死いたしました。このように清廉な人物を、はるばる燕につれてきて、斉との外交交渉
    にあたらせることができましょうか。尾生は女性と橋の下での逢引きを約束しました。
    女性を待つうちにに水かさが増してきましたが、そのまま橋桁を抱いて溺死してしまい
    ました。このような純真な人物を、はるばる燕につれてきて、斉軍の精鋭を追いはらわせる
    ことができましょうか。とはいえわたくしはわたくしなりに、忠信を志したために、
    かえって罪をこうむったわけです」/「いや、そちは忠信ではない。忠信であれば、罪に
    落とされるはずはない」/・・・

この後、蘇秦は、わざと転んで毒入りの酒をこぼして主人の命を救い妻の地位も守ったのに主人から
鞭打たれた女中の話をして「・・・忠信だからといって罪をこうむらないとは限りません。不幸なこ
とに、わたくしの場合も、これと同じことではないでしょうか」と説いて燕王の厚遇を得た次第で、
「尾生を信義に厚い男としてほめ」「自分も尾生に劣らず信義に厚い」というのは違うかと(@_@;)
タグ:古典 歴史 中国
コメント(4) 
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コメント 4

df233285

「領主に対する忠誠心が強かった」という文化が、
少なくとも紀元前3世紀にどうやら、紀元後よりも、
中国では強かったという事を、他人事と考えない事
が、≪このころ≫の日本の歴史を考える上では、
キーポイントになる疑いもあると私は思う。
少なくとも海を挟んだ日本の隣国で、文字で王と
あらわされるとみられる人間に対する忠誠心が、
相当に強かったように見えるわけですから。
by df233285 (2023-04-08 08:08) 

middrinn

蘇秦も献策して採用されれば仕えたわけで、日本の南北朝時代のような
「主人を選ぶ自由」が、この戦国時代の中国にもあったと思いますけど、
蘇秦の場合は燕国のために終始尽していたように見受けられます(^_^;)
by middrinn (2023-04-08 11:24) 

tai-yama

呉起だけでなく蘇秦も"その行為を「仁」とみなしているのではない"
と付け加えないと(笑)。
(毒酒の例から)わざと転んで池に落ちると、視聴者や動物園からも
鞭打たれると言う・・・・
by tai-yama (2023-04-08 19:08) 

middrinn

「仁」ではなくて「信義」の話ですよ(^_^;)
「尾生を信義に厚い」けど外交・軍事の役に
立たない「男として」けなしてるかと(^_^;)
そして「自分」は「尾生」とは違った意味で
「信義に厚いと」「売り込んだ」かと(^_^;)
by middrinn (2023-04-08 20:32) 

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