学力テストを受けさせて歴史上の偉人たちの学力がどの程度なのか知りたいオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
めちゃイケのように抜き打ちテストで、岡村先生が答え合わせで珍解答を発表オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

【読んだ本】

松田浩&上原作和&佐谷眞木人&佐伯孝弘(編)『古典文学の常識を疑う』(勉誠出版,2017)

本書の「第四部 近世文学」の佐藤勝明「『奥の細道』中尾本の意義はどこにあるのか」は非常に
良かった(^^) 1996年(平成8年)に発見・紹介された『おくのほそ道』の中尾本(野坡本とも)が
松尾芭蕉の自筆なのかどうかについて激しい論争があったことはネット上の某論稿で知った(^_^;)
本書184頁から引くΣ( ̄ロ ̄lll)ニャンですと!?

    ・・・/中尾本が芭蕉自筆なのかどうかは、厳密な言い方をすると、未だに
    確定されていない。拙著『松尾芭蕉と奥の細道』(吉川弘文館、二〇一四年)
    に「平成八年出現の自筆本(中尾本)」と記した通り、私自身は自筆と考えて
    いるけれども、それは一個人の判断に過ぎない。学界の趨勢も自筆説を認める
    方向にはあると見られるものの、強固な反対論者も存在し、その溝は埋まって
    いないようである。/反対する側の一根拠に誤字・脱字の多さということがあり、
    その指摘に対抗する措置として、芭蕉の学力(とくに漢詩・漢文を読解する能力)
    を過大評価してはならないとする田中善信の研究〔田中[善信『芭蕉の学力』
    (新典社,]二〇一二[年)]等〕がある。誤りがあるから自筆ではないとの
    見方を批判し、芭蕉にさほどの学力はなかったとする田中説は斬新で、芭蕉の
    文芸を考える上にきわめて大きな問題を突きつけている。その検証は学界を
    あげて進めていく必要があるだろう。/・・・

芭蕉は和歌(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-06 )に加えて漢詩文の
「文学伝統」にも連なって(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-11-02 )、
芭蕉「石山の石より白し秋の風」を久富哲雄(全訳注)『おくのほそ道』(講談社学術文庫,1980)
は五行説から「秋風」は「白色」とし、植木久行『唐詩歳時記』(講談社学術文庫,1995)も「白は
秋の色でもあった。」と(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-11-23 )(^^)
・・・と前に書いたけど、注釈者の深読みだったのかな(@_@;) 駒田信二『中国故事 はなしの話』
(文春文庫,1981)が「一葉落ちて天下の秋を知る」の「語源的意味」からズレている例として芭蕉
の「わが宿の寂しさ思へ桐一葉」も挙げているのを先日読んだ時に〈「秋」の持っている(日本的と
言っていいかは微妙)イメージから「意味を加え」たのかな(@_@;)〉と小生は記したばかりだけど
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-03-10 )、これも芭蕉が「漢文を読解
する能力」が無かったので「一葉落ちて天下の秋を知る」の意味を取り違えた結果なのかな(@_@;)