権力者のことはとにかく悪く言わないと気が済まない人とかいるわな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書,2013)

昨日に続いて、峯岸義秋『歌合の研究』(三省堂,1954)を読んでいて、驚いたのが次の件( ̄◇ ̄;)

    ・・・/その前に一應明らかにして置かなければならないのは[藤原]定頼の傳
    であるが、彼は[藤原]範兼の後六々選に父[藤原]公任とともに入つてゐる
    當代の代表的歌人であるのにもかかはらず、割合後世の人には認められてゐない。
    日本文學大辭典にもこの人のためには一行もしるしてゐない。群書類従には權中納言
    定頼卿集といふ一集を傳へてゐるが、父の公任集とともに當時の歌壇や社交界のこと
    が委細うかがはれて興味深い。續群書類従にも異本權中納言定頼卿集が収録されて
    ゐるが、そのなかの廣澤の逍遥や嵯峨野の旅寝などをしるしたあたりは、物語的な
    叙述にすぐれたものを見せ、あの有名な和泉式部日記ほどの價値は認められないが、
    いろいろの意味でそれと對照される注目すべき作品だとわたくしは思つてゐる。
    寛徳元年(一〇四四)五十歳で歿したとも、寛徳二年(一〇四五)五十二歳で歿した
    とも傳へられてゐるが、その作品で勅撰集に入撰してゐるものは後拾遺集に十四首、
    以下新續古今集まで四十六首入撰してゐる。その和歌史的地位から見れば平安時代
    中期の二流歌人といふべきかも知れないが、・・・

この後、「・・・定頼が和歌史的にあまり認められてゐない理由・・・」を考察してて面白いけど、
驚いたのは勅撰集に「四十六首」入集でも「二流歌人」とされている点であるエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
何人か勅撰集入集歌数を調べちゃったけど、今日は本書の「第二章 道長の宮廷生活」の「2 儀式
について」の「道長の和歌の素養と機知」という見出しの節の冒頭(本書80~81頁)を引く(^_^;)

    /これ[=漢詩文]に対し、和歌の方はどうだったのであろうか。道長の勅撰集
    への入集は、『拾遺集』二首をはじめとして四十三首であるが、これらは歌人
    としての道長が評価されたというよりも、摂関家の祖として入集したものであろう
    (藤原定家の祖先でもある)。/・・・

この件も驚いたし、気になる点もあることはさておくとして、倉本一宏は勅撰集入集「四十三首」が
多いと考えているようだけど、藤原定頼以下だから藤原道長も「二流歌人」とされるのかな(@_@;)
ま、今まで藤原道長のことを一流歌人だなんて小生は思ったことないから、別にいいんだけど(^_^;)