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230224読んだ本

どうして既に持ってる本を入手したのか( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ 愛書家?保存用?違うかとC= (-。- ) フゥー
「また、つまらぬ物を読んでしまったorz」で批判予定だった屑本を新品・定価で注文しちった(..)

【読んだ本】

河添房江『唐物の文化史 舶来品からみた日本』(岩波新書,2014)所蔵本

「道長の書物への愛着」という見出しの節では「・・・/道長が書籍の収集で力を入れていたのは、
ほかならぬ『文選』と『白氏文集』で、・・・」と河添房江は指摘している(^^) そこで、藤原道長
の『白氏文集』の「収集」ぶりを本書の記述から順に引く(^^)

    ・・・/唐物御覧は一条天皇の時代にもあり、寛弘三年(一〇〇六)十月、宋商の
    曽令文からの献上品を一条天皇がみる儀式がおこなわれた。さらに後日、道長は
    曽令文から、蘇木と茶碗、そしして『五臣注文選』(文選の注釈書)や『白氏文集』
    を贈られている。曽令文の来朝は長保元年(九九九)にもあり、今回の来朝は十年
    も経っていないので追い返すかどうか審議されたが、内裏の火災により唐物が焼失し
    不足していた時期でもあり、許されることになった。曽令文はこの措置に感謝して、
    朝廷や道長に対しても献上品を惜しまなかったらしい。/・・・

藤原道長の日記『御堂関白記』の寛弘3年(1006年)10月20日条にも「・・・唐人(曾)令文がもた
らした蘇木と茶碗を持って来た。『五臣注文選』と『白氏文集』も持って来た。・・・」(倉本一宏
[全現代語訳]『藤原道長「御堂関白記」(上)』[講談社学術文庫,2009])とある(^^) ちなみに、
同日記の寛弘7年(1010年)8月29日条には「・・・棚の厨子二双を作った。傍らに立てて、文書を置
いた。三史・八代史・『文選』・『白氏文集』『修文殿御覧』、それに様々な道の書、『日本紀』の
具書、令・律・式を具えた。合わせて二千余巻になった。」(倉本一宏[全現代語訳]『藤原道長
「御堂関白記」(中)』[講談社学術文庫,2009])とあって誇らしげな感じがするが、この記述を
読むと、道長は「家に伝来の書物がないのである」とする清水好子の指摘が説得力を持ってくるし
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-08 )、蔵書の例に『白氏文集』も
挙げているところは微笑ましい(^_^;) さて、本書には「・・・寛弘七年(一〇一〇)十一月にも、
新造の一条院に移る一条天皇に、道長は貴重な宋版の摺本の『文選』(図3─3)と『白氏文集』を
贈っている。それらが、曽令文のかつての献上品なのか、それとも別ルートで入手したものかは定か
でないが、摺本とは写本ではなく宋で作られた版本、いわゆる宋版で、日本ではまだ稀少で珍重され
たのである・・・」とあり、同日記の寛弘7年(1010年)11月28日条にも「・・・天皇への御贈物が
あった。・・・摺本の『白氏文集』であった。」(前掲『藤原道長「御堂関白記」(中)』)と(^^)
曽令文は上記経緯から「献上品を惜し」むことなく摺本の『白氏文集』を道長に献上してそうだし、
その写本を道長は作った上で一条天皇に摺本の『白氏文集』を献上したと考えるのが常識的かと(^^)
ちなみに、河添房江は本書で言及してないけど、実は道長は4年前の寛弘3年(1006年)8月6日にも、
「・・・『白氏文集抄』と『扶桑集』の小冊子を天皇に献上した。これは、御手筥のためのものであ
る。・・・」(前掲『藤原道長「御堂関白記」(上)』)と記してるように、『白氏文集』の抄出本
を一条天皇に献上していたので、やっと完本の『白氏文集』を献上できて、面目が立ったかと(^_^;)

さて、ここまでで、寛弘3年(1006年)に『白氏文集』を曽令文から献上され、寛弘7年(1010年)に
は一条天皇に摺本の『白氏文集』を献上していた事実が判明したわけ(^^) この一条天皇に献上した
摺本が曽令文からの献上品と同一だったとしても常識的に献本前に写本を作っていただろうし、また
もし曽令文とは「別ルートで入手したもの」だったならば曽令文からの献上品が残っているはずで、
いずれにせよ道長は依然として『白氏文集』を所蔵していた、と考えるのが合理的ではないかと(^^)

既に『白氏文集』を所蔵してるのだから、更に『白氏文集』を「収集」しようとはしないはずだが、
本書から引く(^_^;)

    ・・・/なお長和四年(一〇一五)七月にも、唐僧の常智から『白氏文集』を贈られて
    いるが、それはあらかじめ道長が希望して贈ってもらった書籍で、道長としては舶載の
    本を贈られるのを待つだけでなく、積極的に収集していたこともわかるのである。/
    ・・・

『御堂関白記』の長和4年(1015年)7月15日条には「・・・また、唐僧の常智が、『白氏文集』一部
を送ってきた。その返物として、貂の毛皮の衣一領を送った。・・・」(倉本一宏[全現代語訳]
『藤原道長「御堂関白記」(下)』[講談社学術文庫,2009])とあることから、「希望して贈って
もらった」と解したのかな(@_@;) とすると、どうして既に所蔵してそうな『白氏文集』を道長は
「希望して贈ってもらった」のかな(@_@;) またこの『白氏文集』は摺本とは書いてない(@_@;)

更に本書は次の「入宋僧との交流」という見出しの節でも道長の『白氏文集』「収集」を紹介(^_^;)

    ・・・ところで、『御堂関白記』によれば、道長は長和二年(一〇一三)九月、
    入宋僧の寂照からも摺本の『白氏文集』を贈られている。・・・/・・・寂照は
    [弟子の]念救を介して道長に摺本の『白氏文集』や天台山図を贈り、[天台山
    大慈寺再建のための]寄進への協力を仰いだのであった。・・・

長和2年(1013年)9月14日条にも「入唐寂照の弟子である念救が、入京した後、初めて来た。摺本の
『白氏文集』、および天台山の図を贈られた。・・・」(前掲『藤原道長「御堂関白記」(中)』)
と記述(^^) となると、長和2年(1013年)に寂照から摺本の『白氏文集』を贈られたので、長和4年
(1015年)に常智から摺本ではない『白氏文集』を「希望して贈ってもらった」ことになる(@_@;)

以上、寛弘7年(1010年)に一条天皇に摺本の『白氏文集』を献上後も曽令文からの献上品あるいは
その写本を所蔵してたと思われるが、その後も長和2年(1013年)に摺本の『白氏文集』を贈られた
にもかかわらず、なぜ長和4年(1015年)にリクエストして『白氏文集』を入手したのかね(@_@;)
どうして道長は既に所蔵する『白氏文集』を「収集」し続けたのか、その謎解きは明日v( ̄∇ ̄)ニヤッ
でも、明日は昨夜つい注文してしまった屑本が届くような気がするから、後日になるかもね(´・_・`)
タグ:歴史
コメント(6) 
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コメント 6

ナベちはる

批判予定の本をまたお読みになるのであれば、批判したい部分がそうやって書いてあったかを確認するのもいいかもしれませんね((+_+))
by ナベちはる (2023-02-25 01:23) 

middrinn

数年前に図書館から借りて読んだ際に呆れ果て、書き上げた原稿が
一回分に収まらない量になったのでアップしてませんでしたけど、
届いたのが初版でないなら初歩的ミスが訂正されてるか確認したり、
自分の本ならじっくり読めるので気になった点を確認します(^_^;)
by middrinn (2023-02-25 07:25) 

df233285

いまならコピーするのは簡単ですけど。藤原道長等
その時代の人間に写書されて、唐代「白氏文集」、
グローバルな意味で助かりましたねぇ。
by df233285 (2023-02-25 07:46) 

middrinn

寛弘3年(1006年)に一条天皇に抄出本を献上した2ヶ月後に完本、しかも、
摺本を手に入れたのに、献上するまで寛弘7年(1010年)と4年近くあるのは、
『白氏文集』は70余巻もあるため、摺本の書写に時間を要したのかも(^_^;)
ただ、本当に感謝すべきなのは、藤原公任によるコピペだと思います(^_^;)
by middrinn (2023-02-25 08:52) 

tai-yama

道長としては漢詩に疎い(らしいので)実は、皆同じだけど、違う
内容に見えていたのかも(笑)。
by tai-yama (2023-02-25 19:47) 

middrinn

藤原道長は認知が歪んでいた、とおっしゃってるのかしら(^_^;)
篠田達明は『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』
(新潮新書,2003)は、道長は糖尿病性網膜症で、この数年後の
寛仁2年(1018年)には、ほとんど目が見えなかったとか(^_^;)
〈・・・道長は「漢詩文の造詣も深」いとの評価が『白氏文集』
の「収集に力を入れていた」ことを根拠としてるなら、興味深
いけどC= (-。- ) フゥー〉と書きましたけど、持っているのに注文
したのは「漢詩文の造詣も深」かったからかもしれません(^_^;)
by middrinn (2023-02-25 20:59) 

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