210316読んだ本
読書の厄介なところは、「途中で或る女人に逢った」が誰か気になることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
【読んだ本】
倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(中)』(講談社学術文庫,2012)
「全」文が「現代語訳」されてても、解らない箇所があるわけで、注釈付きのが読みたいよ(-ω-、)
仕方がないので、気になる件があったりすると、関連する本をも読んで調べるわけだけど、例えば、
藤原行成の日記『権記』の長保3年(1001年)8月12日条を本書122頁から〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
十二日、辛亥。 殿上盃酒
殿上間において盃酒の饗宴が行なわれた。人は多く酩酊した。左源亜将(経房)は
淵酔した。晩方、右中弁(源道方)と退出した。閑院([藤原]公季)に参った。
月に乗って帰ってきた。
末尾の「月に乗りて、帰り畢んぬ」(国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」の
訓読文)が気になる(@_@;) 黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,
1994新装版)130頁には次のようにある(@_@;)
・・・/十二日、殿上で侍臣たちの私的な酒宴があり、酩酊するもの多く、なかでも
左源亜相(相は将の誤り)はしたたかに酔いつぶれている。左源亜将は左中将源経房
のことであろう。行成も日が暮れてから右中弁源道方と共に退出したが、「月に乗じて
帰り畢[おわ]んぬ」とある『権記』の筆致には、不安な世相にふさわしくなく、
どこか浮き浮きとした気分が漂っているような気がする。/二十三日から二十五日に
かけて除目が行われたが、行成は参議に任ぜられた。「年三十、蔵人頭七年、大弁四年」
と『権記』[長保3年(1001年)8月25日条]は記すが、満で数えても六年の蔵人頭の
激務は省みて感慨深いものであったと思う。参議任官は藤原公任二十七、同斉信三十、
源俊賢三十七、藤原実資は三十三であり、彼の家柄からみて、妥当なところであろう。
なお行成の昇任に伴って蔵人頭になったのは左中将経房であり、思えば十二日の心浮いた
小宴は、これらの人事の前祝だったかもしれない。/・・・
ナルホドとは思うけどさ、「月に乗りて、帰り畢んぬ」は漢詩文か何かの典拠があるのかないのか、
あるならソレが何か知りたいんじゃヾ(`◇´)ノ 漢詩文からのフレーズが『権記』には時々ある(^^)
島田良二「八代集における月について」(森本元子編『和歌文学新論』[明治書院,1982]所収)は
『万葉集』においては、〈また月を「船」に見立てて「月の船」と表現する。大空を海にたとえての
発想である。天の川を舟で渡るのも同じ発想である。〉と指摘してたな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
五日、癸酉。 女人に逢う
女院(藤原詮子)の許に参った。弁内侍に逢った。仰せを伝える事が有った。弾正宮
(為尊親王)の許に参った。左府[藤原道長]の許に参った。右将軍(藤原実資)の
御許に参った。帰宅した。途中で或る女人[にょにん]に逢った。新中将(藤原成房)
と逢った。深夜に帰去した。
本書127頁の長保3年(1001年)9月5日条の「中途に或る女人に相逢ふ」の「女人」とは誰よ(¬。¬ )
バカチン歴史家が同条から藤原行成は清少納言と逢引してた!などと言い出してそうヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
【読んだ本】
倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(中)』(講談社学術文庫,2012)
「全」文が「現代語訳」されてても、解らない箇所があるわけで、注釈付きのが読みたいよ(-ω-、)
仕方がないので、気になる件があったりすると、関連する本をも読んで調べるわけだけど、例えば、
藤原行成の日記『権記』の長保3年(1001年)8月12日条を本書122頁から〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
十二日、辛亥。 殿上盃酒
殿上間において盃酒の饗宴が行なわれた。人は多く酩酊した。左源亜将(経房)は
淵酔した。晩方、右中弁(源道方)と退出した。閑院([藤原]公季)に参った。
月に乗って帰ってきた。
末尾の「月に乗りて、帰り畢んぬ」(国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」の
訓読文)が気になる(@_@;) 黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,
1994新装版)130頁には次のようにある(@_@;)
・・・/十二日、殿上で侍臣たちの私的な酒宴があり、酩酊するもの多く、なかでも
左源亜相(相は将の誤り)はしたたかに酔いつぶれている。左源亜将は左中将源経房
のことであろう。行成も日が暮れてから右中弁源道方と共に退出したが、「月に乗じて
帰り畢[おわ]んぬ」とある『権記』の筆致には、不安な世相にふさわしくなく、
どこか浮き浮きとした気分が漂っているような気がする。/二十三日から二十五日に
かけて除目が行われたが、行成は参議に任ぜられた。「年三十、蔵人頭七年、大弁四年」
と『権記』[長保3年(1001年)8月25日条]は記すが、満で数えても六年の蔵人頭の
激務は省みて感慨深いものであったと思う。参議任官は藤原公任二十七、同斉信三十、
源俊賢三十七、藤原実資は三十三であり、彼の家柄からみて、妥当なところであろう。
なお行成の昇任に伴って蔵人頭になったのは左中将経房であり、思えば十二日の心浮いた
小宴は、これらの人事の前祝だったかもしれない。/・・・
ナルホドとは思うけどさ、「月に乗りて、帰り畢んぬ」は漢詩文か何かの典拠があるのかないのか、
あるならソレが何か知りたいんじゃヾ(`◇´)ノ 漢詩文からのフレーズが『権記』には時々ある(^^)
島田良二「八代集における月について」(森本元子編『和歌文学新論』[明治書院,1982]所収)は
『万葉集』においては、〈また月を「船」に見立てて「月の船」と表現する。大空を海にたとえての
発想である。天の川を舟で渡るのも同じ発想である。〉と指摘してたな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
五日、癸酉。 女人に逢う
女院(藤原詮子)の許に参った。弁内侍に逢った。仰せを伝える事が有った。弾正宮
(為尊親王)の許に参った。左府[藤原道長]の許に参った。右将軍(藤原実資)の
御許に参った。帰宅した。途中で或る女人[にょにん]に逢った。新中将(藤原成房)
と逢った。深夜に帰去した。
本書127頁の長保3年(1001年)9月5日条の「中途に或る女人に相逢ふ」の「女人」とは誰よ(¬。¬ )
バカチン歴史家が同条から藤原行成は清少納言と逢引してた!などと言い出してそうヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
タグ:歴史
「ある女人」誰だか気になりますねぇ(*_*)
こんな思わせぶりな書き方で終了しないで
どこかに「誰か」を書いてくれれば
すっきりするんですけどねぇ(⌒-⌒; )
by ニッキー (2021-03-16 21:16)
当時の貴族の日記は子孫に読ませるためのものなので、
「或る女人」が誰なのか子孫も気になったかも(^_^;)
by middrinn (2021-03-16 21:20)
「月に乗る=月あかりを頼りにする」と国語辞典に
あります。
by 爛漫亭 (2021-03-16 22:03)
「月に変わって、お仕置きよ!」なら私も典拠を知っていたり(笑)。
蔵人頭は今で言う、コロナ対策室と同じぐらい激務だったのかも。
by tai-yama (2021-03-16 22:57)
「或る女人」、どんな方か気になりますね。
by ナベちはる (2021-03-17 00:58)
ありがとうございますm(__)m 愛用の『大辞林』(初版第一刷)には出てませんが、
爛漫亭様、ネット検索すると『精選版 日本国語大辞典』の「月の興にのる。月のおも
しろさに感興をもよおす。また、月の明かりを頼りとする。」がヒットしました(^^)
用例に〈観智院本三宝絵(984)下「俗は月に乗て寺にゆく」〉が挙げられてたので、
そちらから攻めれば、(漢詩文か何かの)典拠も判明するのかもしれませんね(^_^;)
by middrinn (2021-03-17 06:18)
「月に向かって、お仕置きよ!」というのを、
tai-yama様に使おうと思っております(^_^;)
by middrinn (2021-03-17 06:19)
気になりますよねぇ(^_^;) この「或る女人」、
ナベちはる様のご先祖かもしれませんし(^_^;)
by middrinn (2021-03-17 06:21)
現代語訳あってもよくわからないわ(^^;
by そら (2021-03-17 06:47)
なるべく原文を尊重した現代語訳なので、
言い回しとか、解りにくいですね(^_^;)
by middrinn (2021-03-17 06:52)