国勢調査の至急提出をお願いする督促状がポストからはみ出てる家を何軒か目撃したが晒しか(@_@;)

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)

和泉式部キタ━━━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━━━!!!!!! キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!!
藤原実資の日記『小右記』の寛仁2年(1018年)正月21日条を本書3~4頁から引く(⌒~⌒)

     二十一日、乙卯。 政治/頼通、大饗料倭絵屛風を新調/公卿以下、これに詩歌を献上

    大外記[小野]文義朝臣が云ったことには、「今日、外記政始[げきせいはじめ]が
    行なわれます。摂政(藤原頼通)が新調した大饗のため四尺倭絵屛風十二帖を持参
    されるのです。画工は織部佑親助です。色紙形に、詩及び和歌が有ります。今日、各々、
    これを献上します。詩は大納言(藤原)斉信・(藤原)公任・式部大輔(藤原)広業・
    内蔵権頭(慶滋)為政・大内記(藤原)義忠・(藤原)為時法師が作りました。和歌は
    祭主(大中臣)輔親・前大和守(藤原)輔尹・左馬頭(藤原)保昌の妻式部(和泉式部)
    が読みました。大納言公任卿は、遅参してきて、詩を出しませんでした。太相府(道長)
    は、頻りに催促されました。頗る感興の様子が有りました、無理に立ち退き、右中弁
    (藤原)定頼に書き出させました。卿相が多数、会合しました。侍従中納言(藤原)行成
    に書かせることになっていました。拾遺(行成)が云ったことには、『明後日の大饗に
    書き出すことはできません』と云うことでした。両納言の詩は、評定するわけには
    いきません。他は撰ばなければなりません。定められていた際、下﨟の上達部は、各々、
    分散しました。祭主の和歌は、明日、定めることになりました」と云うことだ。儒者では
    ない上﨟の公卿が、臣下(道長)の命によって屛風の詩を作るのは、如何なものか。
    凡人に異ならない。特に公任卿は、故宮(藤原遵子)に伺候している。周忌の内に、
    この興が有るのは、如何であろう。

『現代語訳 小右記』第5巻の副題は「紫式部との交流」だが、ソレを示す記述はたしか1行程度(゚ロ゚;)
紫式部と付いてれば食い付く人が多いからだろうけど、和泉式部では副題にならないんだね(-ω-、)

さて、相変わらずプンプンも私怨(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-02
だったりして(^_^;) 和歌は「不得手」と後世の研究者から断定(根拠不明)されつつも、和歌の会を
主催していた実資(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )だから(^_^;)

さてさて、伝聞証言が目立つ『小右記』、この条の記述も真に受けてしまうと、和歌を詠んだのは、
大中臣輔親、藤原輔尹、和泉式部の3人だけということに(@_@;) 藤原道長の日記『御堂関白記』の
同日条を、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)から
引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

     二十一日、乙卯。 亡母忌日の斎食/二条第講経/藤原頼通大臣大饗の屛風詩歌を選定

    ・・・摂政[藤原頼通]が、大饗に用いる屛風の詩、および和歌を持って来られた。
    来られた公卿たちと共に定めた。按察大納言[藤原斉信]と四条大納言(藤原公任)
    の詩、各々五首は、皆、上出来であった。そこで入選した。(藤原)広業・(慶滋)
    為政・(藤原)義忠・(藤原)為時法師たちの詩は、選んで各々二、三作を入選した。
    納得できなかったものも、いくつか有った。和歌は(大中臣)輔親・(藤原)輔尹・
    江式部(和泉式部)たちのものを、各々定めて入選した。多くは気に入らなかった。
    私も、少々の和歌をここに入れた。大納言(藤原公任)が一首入れたのに倣った
    のである。

道長は和歌に自信があるのかな(^_^;) このように、実は道長らの歌も入っていることは、和泉式部が
詠んだ歌を知りたくて、保坂都『大中臣家の歌人群』(武蔵野書院,1972)の大中臣輔親の伝記の項を
披いたら『栄花物語』の当該件が引かれてて、その記述からも判ったし、国際日本文化研究センター
「摂関期古記録データベース」を調べたら、源経頼の日記『左経記』の同日条も「・・・按察大納言
・四条大納言、大殿に於いて、摂政殿の大饗料の御屏風詩并びに歌等を択び定む。侍従中納言をして
書かしめ給ふ〈詩作の者、按察・四条両亜相、式部大輔広業、内蔵権頭為政、大内記義忠。歌作の者、
大殿、四条大納言[、]輔親、輔尹、式部の女等なり。〉」とあったv( ̄∇ ̄)ニヤッ

さて、さて、さ~て! 気になるのは『御堂関白記』の寛仁2年(1018年)2月6日条で前掲書から(^_^;)

     六日、庚午。 摂政家の屛風詩歌

    侍従中納言(藤原行成)が、摂政(藤原頼通)の家(高倉第)の屛風の詩歌を
    書き出して、持って来た。

もし同じ屛風なら、「納得できなかったものも、いくつか有った」、「多くは気に入らなかった」と
文句を言ってたくせに、気に入った作品があったのかな(^_^;) 自分が詠んだ歌だったりして(^_^;)