我以外皆我師(われ以外みなわが師)は吉川英治だから深みが感じられるわけで人を選ぶ言葉(^_^;)
口には出さなくても、我以外皆馬鹿、我以外皆醜女などと思ってる人もいそうオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

【読んだ本(バカチン)】

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(中)』(講談社学術文庫,2009)所蔵本

当時は実名を避けて官職名で呼ばれたので、本書も人名を補って訳すが、その人名に疑問が(@_@;)

手元のは第5刷ゆえ多くの人が読んでるはずで、中には専門家もいそうなのに指摘する者がいないのか
我以外皆節穴なのか、長和元年(1012年)2月の7日と9日の両条をよぉーく御覧あれ( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

     七日、乙巳。

    ・・・藤大納言(藤原道綱)の男の少将(藤原兼綱)に、祭使のための雑物を送った。

     九日、丁未。 立后文書内覧/春日祭使出立

    ・・・「中宮[藤原彰子]から、春日祭使(藤原兼経)の出立所に宿直装束を送られた」
    ということだ。・・・

七日の「少将」と九日の「春日祭使」は同一人物じゃないとおかしいヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

七日~九日の間に春日祭使が兼綱から兼経に交代した可能性は低いかと〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
春日祭使が交代となると、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術
文庫,2009)の寛弘4年(1007年)10月26日条と29日条の如く、記さないわけがないからv( ̄∇ ̄)ニヤッ

     二十六日、己未。 春日祭使触穢

    春日祭使(藤原)兼綱が、穢に触れたことを申してきた。天皇は左右の中少将で、
    順番が遠い者に奉仕させるということを仰せられた。ところが、或る者は假文を
    提出し、或る者は勤められないことを申した。

     二十九日、壬戌。 直物/藤原教通を権少将に任じ、春日祭使とす

    ・・・天皇の召しによって御前に参上した。おっしゃって云われたことには、
    「春日祭使を奉仕する人が無い。(藤原)教通を権少将に任じて、祭使を奉仕
    させなさい」と。仰せによって、教通を権少将に任じた。

兼綱は、その後、石清水臨時祭使を勤めてるし(本書の寛弘8年[1011年]3月9日条)、七日関白こと
道兼の子だが道兼の死後に道綱の養子となっており、前掲・下巻の長和4年(1015年)4月7日条からは
「その家と親しい公卿が選ばれるのが普通」(土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973
初版→2004改版)の職である皇太后宮権亮になったことが判り、皇太后彰子との関係も良好そうで、
「中宮[藤原彰子]から、春日祭使・・・の出立所に宿直装束を送られた」というのも自然(@_@;)

兼経は道長の養子だが道綱の子なので「藤大納言(藤原道綱)の男」という記述にはドンピシャも、
『公卿補任』によれば寛弘9年、すなわち長和元年(1012年)の正月27日に権少将になったばかりで
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-07-11 )、長和元年(1012年)2月7日に
「少将」ではないけれど、『御堂関白記』では権官なのにそう記していないこともあって、例えば、
本書の長和2年(1013年)6月23日条には、天皇が「・・・頼通も権大納言に任じることにしよう」と
おっしゃってるのに、同日条に「大納言(頼通)」、7月3日条と8月14日条も「大納言(藤原頼通)」
と記してはいるが、10月3日条に「権大納言(藤原頼通)」とあるように、やはり「権大納言」(^_^;)

以上のように、兼綱と兼経、どちらでも不自然ではないようだけど、実は決め手となりそうな記述が
前掲・下巻の長和5年(1016年)2月8日条にあるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

     八日、癸未。 開関/蔵人頭・蔵人・殿上人定

    ・・・春日祭使(藤原)兼綱の許に、舞人の下重と絹五十疋を送った。・・・

ただ、手元のは第4刷なのに指摘した人いないのか、「兼経」の誤りヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
その理由は明日書くので読みなさいオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! 「けふもよむべし あすもよむべし」とは
ブログ主だけではなくブログ読者にも向けられていたのだオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)ヾ( ̄ヘ ̄; )エラソー!