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230421買った本&読んだ本

届いたのを開封して発した一言、なにわのブラックダイヤモンド橋本梨菜かよ!ヒィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
「お届け日数を調べる」によると「午前中」ゆえ朝からずっと家に居て待っていたのに届いたのは
12時25分(-ω-、) お昼を食べるのが遅くなって、13時から読み始めて記憶が30分間無い(´ヘ`;)

【買った本&読んだ本】

阪倉篤義&本田義憲&川端善明(校注)『新潮日本古典集成 今昔物語集 本朝世俗部二』(新潮社,1979)

「もったいない本舗 楽天市場店」の644円「良い」(送料無料)を18日に注文し、ゆうパック(追跡
可能)で21日に届いた(^_^;) 函は上述の通りも、本は鉛筆による書き込みが少々ある程度なので、
問題ナシオン主権(^o^)丿 この新潮日本古典集成の全四巻の気に入っている点などは第四巻購入時に
記した(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-12-30 )(^_^;) 巻第二十五、
巻第二十六、巻末に本田義憲による〈解説 「辺境」説話の説〉と付録の「説話的世界のひろがり」
「巻第二十五の武者たちと合戦(年表)」「巻第二十五系図」「関東および欧州合戦地図」所収(^^)
巻第二十五の「藤原純友、海賊に依りて誅せらるる語、第二」の一節を、馬淵和夫&国東文麿&稲垣
泰一(校注・訳)『新編日本古典文学全集37 今昔物語集③』(小学館,2001)の訳で引く(^_^;)

    ・・・/その次の日、左衛門の府生掃守在上という、物の形を少しもちがわずに写す
    有名な絵師を[朱雀天皇は]内裏に召し、「かの[藤原]純友と[その子の]重太丸
    の二つの首が右近の馬場にある。ただちにそこへ行き、その二つの首のさまを見て、
    写して持ってまいれ」とお命じになった。これは、かの首を天皇が実見したいと
    お思いになったが、内裏に持ち込むわけにゆかぬので、こうして絵師をやり、その形を
    写してご覧になろうがためであった。そこで、絵師は右近の馬場に行き、そのさまを
    見てこれを写し、内裏に持参したところ、天皇は殿上の間でご覧になった。首を描いた
    絵は実物にそっくりであった。だが、このようにしてご覧になったことを世間ではよく
    言わなかった。/・・・

同書の頭注欄には何も記されてなかったけど、本書の巻末「付録」の「説話的世界のひろがり」には
「首渡しと見物たち」の項に次の指摘があり、その説明もなされていた((;゚Д゚)ヒィィィ!

    ・・・純友の首級を朱雀天皇が写生せしめたという一つの説話のような話は、
    実は事実であった。・・・

といっても、同項には、白河法皇が源義親、後白河法皇が平宗盛や清宗、高倉天皇が以仁王や源頼政
の首渡しを見物したこともちゃんと記されていたから、それほど吃驚はしなかったんだけどね(^_^;)
タグ:古典 説話 歴史
コメント(4) 

コメント 4

df233285

朱雀天皇の時代に、写実主義の画家が居たという話は、
その時代の絵画が存在するという話を余り聞かないの
で個人的にピンと来ない。そのような絵が仮に大量に
残って居たなら、一例で源頼朝についての今の認識も、
峰岸純夫氏の言うように、かなり違っていただろうと
私は思う。
by df233285 (2023-04-22 07:58) 

middrinn

この写実主義の絵師「在上」は気になりますよね(^_^;)
「高名の絵師」とされてるのに、両書とも伝未詳(^_^;)
流石と言うべきか、本書の頭注は「孝謙・淳仁天皇の頃
にも掃守真弓という画家がいた。画の才は、追補・検束
のような検非違使の職掌にとって、実用的な意味をもつ
ものでもあった、」と指摘してて、興味深いです(^_^;)
堀河天皇の頃に、文殿に保存されてた当該「純友首図」
なるものを見たという証言を本書は紹介してます(^_^;)
見ても「実物にそっくり」か判らないでしょうが(^_^;)
峰岸純夫云々は足利尊氏は誰もが味方したくなるような
顔だったという4年前に頂戴したコメントですね(^_^;)
by middrinn (2023-04-22 11:17) 

tai-yama

信長が天守閣の内裏でしゃれこうべの金杯とかやっていたけど、
御所の内裏で同様のことはできませんね・・・・
今の時代なら、府生掃守在上の絵にモザイクがかかりそう(笑)。
by tai-yama (2023-04-22 19:02) 

middrinn

安土城に「御幸の間」があったことは知ってましたが、
wukiに本丸御殿が清涼殿に酷似するとの説が( ̄◇ ̄;)
でも、安土築城開始は天正4年(1576年)、浅井長政
が討たれたのは天正元年(1573年)9月ですし、現に
『信長公記』の当該場面が新田次郎『武田勝頼(一)
陽の巻』(講談社,1980)に引用されてましたけど、
「天正二年正月朔日、京都隣国の面々等、在岐阜にて、
御出仕あり、・・・去る年北国にて討ちとらせられ候、
朝倉左京大夫義景首、浅井下野首、浅井備前首、已上
三つ、薄濃にして、・・・」とあり、安土城ではない
です(^_^;) 最近はモザイク破壊・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2023-04-23 06:22) 

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