共著者の名前を見て注文するのを止めてしまったよ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ 『旅行ガイド京都
文学と歴史』(京都書房,1996)という本で、小倉山について考証した論文がメチャクチャ良かった
森本茂(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-09-21 )の本を探していて安値
だったけど、共著者として(光明正信の他に)村井康彦の名前があったから止めたわ( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

【読んだ本】

松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈 別巻』(角川書店,1982)

本書の付録の月報29に掲載されてた村井康彦〈「望月の歌」をめぐって〉という小論、間違っている
わけではないからバカチンはしないけど、チト頭が悪いね(^_^;) かの百目鬼恭三郎『続風の書評』
(ダイヤモンド社,1983)が村井康彦(編)『年表日本歴史 2 平安:784~1184』(筑摩書房,1980)
をボロクソに酷評してたし(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-03 )、
村井康彦による藤原実資の日記『小右記』の記述の誤読ぶりも読解力が疑われるレヴェルだったわな
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-01-31 )オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

藤原道長が寛仁2年(1018年)10月16日に詠んだ有名な「望月の歌」は、『小右記』に記されている
だけで、道長自身の日記『御堂関白記』にも記されてなければ、「・・・当日の有様を詳しく述べる
[源経頼の日記]『左経記』にも、そのやりとりについては何ら記すところがない。」とした上で、
次のように記している(返り点等は省略)(^_^;)

    ・・・/先に述べたその場の状況を想像してみるに、道長が歌を詠むのに実資に
    語りかけ、これに対して実資らは「満座」で吟詠したというが、実際には道長の
    周辺にいた数輩の卿相たちだけの間で詠じられたもので、他の殿上人や地下の輩
    などには及ばなかったのではないか。道長が立ち上がり、満座の者に聞こえよがし
    に詠じたというものではなかったのではないか。先にふれたように、ほぼ『小右記』
    と同じ密度で[当日の]立后の儀式について記している『左経記』には、中宮新殿
    での饗応についてはごく簡単で、「数盃之後有禄物、事了上下分散」とのみあって、
    禄物あとの望月の歌にふれるところがない。作者経頼には無縁なところで進行して
    いたことだったのかも知れない。/

「経頼には無縁なところで進行していたことだった」のは当たり前じゃん(^_^;) この歌が詠まれた
「その場」にいたのは、『御堂関白記』には「・・・諸卿を中宮[威子]の御前に召して、・・・」
(倉本一宏[全現代語訳]『藤原道長「御堂関白記」(下)』[講談社学術文庫,2009])とあるし、
『小右記』にも「・・・諸卿は私の言に響応して、数度、吟詠した。・・・」(倉本一宏編『現代語
訳 小右記9 「この世をば」』[吉川弘文館,2019]103頁)とある如く(国際日本文化研究センター
「摂関期古記録データベース」によると「・・・上卿を御前に召し、・・・」「・・・諸卿、余の言
に響応し、数度、吟詠す。・・・」)、「諸卿」、つまり公卿(^_^;) 1029年(長元2年)正月27日に
蔵人頭に選ばれたことを「[源]経頼がこれほど喜んだのは、たんに蔵人頭が公卿につぐ重職だから
ということだけではない。蔵人頭を勤めれば、いずれ参議に進み、待望の公卿の仲間入りができると
いうことがほぼ確実だからでもある。・・・その翌年、はたしてかれは参議に昇進し、公卿の末席に
つらなった。」と土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版→2004改版)が描いた
ように、『左経記』記主の源経頼は当時はまだ公卿じゃないので「その場」にいるわけがない(^_^;)