買う予定ナシオン主権だったとはいえ4万円以上する古本が買われちゃったらしくショック(-ω-、)
【読んだ本】
北山茂夫『藤原道長』(岩波新書,1970→1995特装版「岩波新書 評伝選」)
「古記録、いわゆる和風漢文の公卿の日記は、いずれも史実が正確に書かれていると言われ、古文書
とともに大変重んじられるものである。」と山中裕(日本歴史学会編集)『藤原道長』(吉川弘文館
人物叢書,2008新装版)226頁(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-05 )
も記してるけど、だからといって、その記述内容のチェックを怠っていいわけではないからね(^_^;)
藤原道長の日記『御堂関白記』の寛弘元年(1004年)閏9月21日条の一部を倉本一宏(全現代語訳)
『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)の訳で引く(@_@;)
二十一日、壬申。 宇治へ行く/近江守、牛を献上
天が晴れた。早いうちに宇治に行った。舟に乗った。同行したのは、右衛門督
[藤原斉信]・勘解由長官[源有国]・右大弁[藤原行成]であった。舟中に
おいて連句を作った。宇治の別業に着いてから、詩の題が出た。別業において、
詞を作った。(大江)以言が序を作った。・・・
宇治への「同行」者は、藤原斉信、源有国、藤原行成の3人(他に大江以言もいるけど)であって、
倉本一宏が同(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)の巻末の
「おわりに」で師を批判して、「かつて土田直鎮氏は、・・・道長は人の出席に無頓着であったかの
記述をなされたが、『御堂関白記』を一見すればわかるように、道長ほど出欠を気にする人はいない
のである・・・」と指摘してたので、この3人以外の「出席」者はいない、と思い込んでた(@_@;)
ところが、北山茂夫が本書の「第3章 寛弘時代の道長」の「作文の興」という見出しの節で、次の
ように記していた(本書77~78頁)Σ( ̄ロ ̄lll)ニャンですと!?
・・・/ところで、一〇〇四年(寛弘一)閏九月二一日に、道長は、斉信、有国、
行成らを伴って、宇治の山荘に遊び、作文の雅会を催した。「宇治別業即事」と
題するかれの作を揚げよう。
別業号し伝ふ宇治の名、
暮雲路僻にして華京(都)を隔つ、
柴門月静かににして霜色に眠り、
旅店風寒くして浪声に宿る、
戸を排して遙かに看る漢文(天の川、ここでは眼下の宇治川の流れ)の去るを、
簾を巻きて斜めに望む雁橋(崖にかかる橋)の横たはるを、
この地に勝遊して猶尽し難きに、
秋風将[まさ]に移らんとす潘令の情(晋の時代の潘岳のこと。かれは、河陽県の令
(長官)であった。「秋興の賦」という名篇がある)。
この席上でつくられたもののなかで、主人道長、隆家、源孝道の作だけが、のちに
『本朝麗藻』に採択され、左大臣の命で大江以言の草した詩序が『本朝文粋』の
なかにある。『御堂関白記』にその名はないが、伊周の弟権中納言隆家がこのとき
道長の誘いをうけてこの行に加わっていたのである。そのあとに、後中書王に、
「偸[ひそか]に左相府宇治の作を見て感あり」と題する詩篇がある。王はそれを
道長のもとに寄せたのであろう。こういう例はほかにもすくなくない。/・・・
藤原隆家(&源孝道←12日条に前日の作文会で作った詩を読んだ際の講師と)も「この行に加わって
いた」とは( ̄◇ ̄;) 「出欠を気にする」道長なのにどうして隆家の名を記さなかったのか(@_@;)
[追記230215]
北山茂夫が藤原隆家の作とする『本朝麗藻』の作品、黒板伸夫によると藤原行成の作だとか(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-15
【読んだ本】
北山茂夫『藤原道長』(岩波新書,1970→1995特装版「岩波新書 評伝選」)
「古記録、いわゆる和風漢文の公卿の日記は、いずれも史実が正確に書かれていると言われ、古文書
とともに大変重んじられるものである。」と山中裕(日本歴史学会編集)『藤原道長』(吉川弘文館
人物叢書,2008新装版)226頁(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-05 )
も記してるけど、だからといって、その記述内容のチェックを怠っていいわけではないからね(^_^;)
藤原道長の日記『御堂関白記』の寛弘元年(1004年)閏9月21日条の一部を倉本一宏(全現代語訳)
『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)の訳で引く(@_@;)
二十一日、壬申。 宇治へ行く/近江守、牛を献上
天が晴れた。早いうちに宇治に行った。舟に乗った。同行したのは、右衛門督
[藤原斉信]・勘解由長官[源有国]・右大弁[藤原行成]であった。舟中に
おいて連句を作った。宇治の別業に着いてから、詩の題が出た。別業において、
詞を作った。(大江)以言が序を作った。・・・
宇治への「同行」者は、藤原斉信、源有国、藤原行成の3人(他に大江以言もいるけど)であって、
倉本一宏が同(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)の巻末の
「おわりに」で師を批判して、「かつて土田直鎮氏は、・・・道長は人の出席に無頓着であったかの
記述をなされたが、『御堂関白記』を一見すればわかるように、道長ほど出欠を気にする人はいない
のである・・・」と指摘してたので、この3人以外の「出席」者はいない、と思い込んでた(@_@;)
ところが、北山茂夫が本書の「第3章 寛弘時代の道長」の「作文の興」という見出しの節で、次の
ように記していた(本書77~78頁)Σ( ̄ロ ̄lll)ニャンですと!?
・・・/ところで、一〇〇四年(寛弘一)閏九月二一日に、道長は、斉信、有国、
行成らを伴って、宇治の山荘に遊び、作文の雅会を催した。「宇治別業即事」と
題するかれの作を揚げよう。
別業号し伝ふ宇治の名、
暮雲路僻にして華京(都)を隔つ、
柴門月静かににして霜色に眠り、
旅店風寒くして浪声に宿る、
戸を排して遙かに看る漢文(天の川、ここでは眼下の宇治川の流れ)の去るを、
簾を巻きて斜めに望む雁橋(崖にかかる橋)の横たはるを、
この地に勝遊して猶尽し難きに、
秋風将[まさ]に移らんとす潘令の情(晋の時代の潘岳のこと。かれは、河陽県の令
(長官)であった。「秋興の賦」という名篇がある)。
この席上でつくられたもののなかで、主人道長、隆家、源孝道の作だけが、のちに
『本朝麗藻』に採択され、左大臣の命で大江以言の草した詩序が『本朝文粋』の
なかにある。『御堂関白記』にその名はないが、伊周の弟権中納言隆家がこのとき
道長の誘いをうけてこの行に加わっていたのである。そのあとに、後中書王に、
「偸[ひそか]に左相府宇治の作を見て感あり」と題する詩篇がある。王はそれを
道長のもとに寄せたのであろう。こういう例はほかにもすくなくない。/・・・
藤原隆家(&源孝道←12日条に前日の作文会で作った詩を読んだ際の講師と)も「この行に加わって
いた」とは( ̄◇ ̄;) 「出欠を気にする」道長なのにどうして隆家の名を記さなかったのか(@_@;)
[追記230215]
北山茂夫が藤原隆家の作とする『本朝麗藻』の作品、黒板伸夫によると藤原行成の作だとか(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-15