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230211読んだ本

下手糞な人間が急に上手くなって一時的に無双状態になることもゾーンに入ると言うのかな(@_@;)

【読んだ本】

北山茂夫『藤原道長』(岩波新書,1970→1995特装版「岩波新書 評伝選」)

昨日と同じく、本書の「第3章 寛弘時代の道長」の「作文の興」という見出しの節から引く(本書
77~78頁)(⌒~⌒)

    ・・・/ところで、一〇〇四年(寛弘一)閏九月二一日に、道長は、斉信、有国、
    行成らを伴って、宇治の山荘に遊び、作文の雅会を催した。「宇治別業即事」と
    題するかれの作を揚げよう。

      別業号し伝ふ宇治の名、
      暮雲路僻にして華京(都)を隔つ、
      柴門月静かににして霜色に眠り、
      旅店風寒くして浪声に宿る、
      戸を排して遙かに看る漢文(天の川、ここでは眼下の宇治川の流れ)の去るを、
      簾を巻きて斜めに望む雁橋(崖にかかる橋)の横たはるを、
      この地に勝遊して猶尽し難きに、
      秋風将[まさ]に移らんとす潘令の情(晋の時代の潘岳のこと。かれは、河陽県の令
      (長官)であった。「秋興の賦」という名篇がある)。

    この席上でつくられたもののなかで、主人道長、隆家、源孝道の作だけが、のちに
    『本朝麗藻』に採択され、左大臣の命で大江以言の草した詩序が『本朝文粋』の
    なかにある。『御堂関白記』にその名はないが、伊周の弟権中納言隆家がこのとき
    道長の誘いをうけてこの行に加わっていたのである。そのあとに、後中書王に、
    「偸[ひそか]に左相府宇治の作を見て感あり」と題する詩篇がある。王はそれを
    道長のもとに寄せたのであろう。こういう例はほかにもすくなくない。/・・・

『大鏡』は藤原道長作の漢詩文が白居易も思い付かない巧妙な詩句であるとヨイショの志ん駒も兜を
脱ぎそうなヨイショだけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-09 )、
小生は漢詩文の良し悪しが判らぬので、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』
(講談社学術文庫,2009)巻末の「おわりに」に、

    ・・・[道長]自身はあまり作詩は得意ではなかったようで、現在残されている
    道長製の漢詩も、それほど優れたものとは思えないのであるが、・・・

と記されているのを読んで、倉本一宏は漢詩文に対する眼識が有るなんて凄いなぁと感心( ̄◇ ̄;)

ところが、この藤原道長が作った「宇治別業即事」についても、倉本一宏は『藤原道長の日常生活』
(講談社現代新書,2013)79頁で次のように評していたΣ( ̄ロ ̄lll)ニャンと!?

    ・・・/ただ、道長自身はあまり作詩は得意ではなかったようで、現在残されている
    道長製の漢詩(『本朝麗藻』の「宇治別業の即事[そくじ]」「林花、落ちて舟に
    灑[そそ]ぐ」、『逍遥公答問』の「藤花、紫綬を作る」)も、それほど優れたもの
    とは思えないのであるが、とにかく皆が集まって漢詩を作る場を提供する、あるいは
    その場に身を置くのが好きだったようである。/・・・

「それほど優れたものとは思えない」作品が「『本朝麗藻』に採択され」ているのは何故(@_@;)
漢詩文にも優れていたとされて文名が高かった「後中書王」具平親王(村上天皇の子)は「それほど
優れたものとは思えない」作品なのに「感あり」として詩篇を「寄せた」ことになるのかな(@_@;)

藤原道長の日記『御堂関白記』を見ると、この寛弘元年(1004年)閏9月21日条から同29日条までに
7日分の記事があり、同27日条以外は漢詩文のことが出てくるので、倉本一宏(全現代語訳)『藤原
道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)から漢詩文に関連する部分を引く(@_@;)

     二十一日、壬申。 宇治へ行く/近江守、牛を献上

    天が晴れた。早いうちに宇治に行った。舟に乗った。同行したのは、右衛門督
    [藤原斉信]・勘解由長官[源有国]・右大弁[藤原行成]であった。舟中に
    おいて連句を作った。宇治の別業に着いてから、詩の題が出た。別業において、
    詞を作った。(大江)以言が序を作った。・・・

     二十二日、癸酉。 宇治作文会

    午剋の頃、詩を読んだ。・・・

     二十三日、甲戌。 藤原伊周の詩に和す

    ・・・入唐した寂照上人の旧房に帥[藤原伊周]が到って作った詩に和して、
    帥[藤原伊周]の御許に届けさせた。

     二十五日、丙子。 東宮霍乱/具平親王、道長の詩に和す

    ・・・中務宮(具平親王)から、右大弁[藤原行成]を介して、宇治の作文会の際に
    私が作った詩に和した詩を賜った。

     二十六日、丁丑。 一条天皇・藤原伊周、道長の詩に和す

    内裏に参った。[一条]天皇は、先日、帥[藤原伊周]が寂照の房において作った詩に
    私が和した詩を御覧になり、御製を賜った。私は、感激してしまって、御製に和すこと
    など思いも及ばなかった。夜に入って、帥[藤原伊周]の許から、中納言(藤原隆家)
    を遣わして、また私の詩に和した詩が届けられた。・・・

     二十九日、庚辰。 中宮季御読経始/内裏作文会

    ・・・内裏に参った。先日、[一条]天皇から賜った寂照の房の御製に、和して献上
    した。内裏において作文会を行なった。右衛門督[藤原斉信]・中宮権大夫[源俊賢]
    ・勘解由長官[源有国]・左大弁[藤原忠輔]・右大弁[藤原行成]が、参会した。
    題は、「秋が過ぎることは、流水のようである」であった。戌二剋に始め、子四剋に
    終わった。

藤原道長の漢詩文が「それほど優れたものとは思えない」ものなら、具平親王、一条天皇、藤原伊周
という漢詩文が隆盛した一条朝文壇を代表する詩才豊かな面々が「和した」のは何故なんだ(@_@;)
この数日間の藤原道長はゾーンに入って無敵状態となり、「優れた」作品を連発したのかな(@_@;)
タグ:歴史 評伝
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

道長の漢詩がうまいと思ったのは、単に"かんしがい"(勘違い)
だった可能性も(笑)。人間だれでも絶頂期はあって・・・(泣)。
by tai-yama (2023-02-11 19:24) 

middrinn

「それほど優れたものとは思えない」駄洒落かとC= (-。- ) フゥー
具平親王、一条帝、伊周が全く同時期に「勘違い」ねぇ(^_^;)
特に、具平親王が「勘違い」というのは考え難いですね(^_^;)
tai-yama様にも「絶頂期」があったなんて・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
バイクを昔のカッコいいのに戻したなら「絶頂期」復活(^o^)丿
by middrinn (2023-02-12 06:13) 

df233285

道長の漢詩は「座長が叩き台として作ると適格」という
程度の、まあまあの実力だったのではないか。全くの
音痴なら別だが。練習次第というところでは。倉本一宏
の所見は、彼の著作本の定価が実情より高価との心証
からの、信用度有無の観点で。私見だが、私にはいつも
正しいとは確証され無い。
by df233285 (2023-02-12 07:56) 

middrinn

漢詩文に疎いので、作文会がどういう段取りで
行なわれたのかも小生は分かりません(@_@;)
『大鏡』じゃないですが、漢詩文に優れた人が
インスパイアされる詩句があるのかも(^_^;)
『藤原道長の日常生活』は今再読してて、大昔
読了した時以上に首を傾げたくなる記述があり
ますけど、手元に置きたくなったので、110円
で美品があれば速攻で購入しそうです(^_^;)
by middrinn (2023-02-12 09:05) 

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