「眼光紙背に徹する」とは「書を読んでその字句の解釈にとどまらず、文面の奥にある深い意味まで
見抜く。」と手元の『大辞林』第一版第一刷は説明しているが、いつもこうありたいものだ(@_@;)

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記15 道長薨去』(吉川弘文館,2022)

藤原実資の日記『小右記』の長元2年(1029年)2月26日条を本書244頁から〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)

     二十六日、乙酉。 内裏女房曹司に窃盗

    二十三日の夜、窃盗が内裏の女房の曹司に入り、衣裳を捜し取った。また、左少将
    (源)定良が馬に乗って内裏に参った。その馬は、しばらく縫殿寮の門に立てた。
    盗人が奪い取り、騎って馳せ去った。皇威が無いようなものである。

「皇威無きに似る」とは、「竊盜、内の女房の曹司に入り、衣裳を捜し取る」ことに対してなのか、
「左少将定良、・・・の馬、・・・盗人、奪ひ取り、騎りて馳せ去る」ことに対してなのか(@_@;)

この当時の「衣裳」は財産的価値が高かったらしく侵入盗が「衣裳」を窃取していく例が散見され、
また『紫式部日記』に内裏(ただし、一条院)で女房たちが「衣裳」を剥ぎ取られた事件に遭遇した
話も記されてるけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-05 )、やはり
「内裏」で立て続けに窃盗事件が起きたことを指して、「皇威無きに似る」と嘆いたのかな(@_@;)

さて、さて、さ~て!気になったのは、被害者の一人の源定良で、事件当時は「左少将」(万寿4年
[1027年]7月26日条にも「左少将定良」は3回登場[本書21頁に2回、本書23頁に1回だが、国際日本
文化研究センター「摂関期古記録データベース」の書き下し文だと2つ目は「少将定良」])だけど、
事件から約5ヶ月後の『小右記』の長元2年(1029年)7月17日条に次の記述(本書272頁)(@_@;)

    ・・・膝突二枚を敷いて、左右近衛将〈左は[藤原]経季、右は[源]定良。〉に
    伝えました。・・・」

源定良は「左」ではなく「右」になっている(摂関期古記録データベースも「膝突二枚を敷き、左右
近将〈左、経季。右、定良。〉に仰す。」と書き下し文)(@_@;) 藤原経季は『小右記』の長元2年
(1029年)4月21日条に「左少将[藤原]経季が出立した。」(本書266頁)とあるので、藤原経季は
「左少将」から一気に左中将になって、源定良も「左少将」から右中将へと出世したのかな(@_@;)

ところが、摂関期古記録データベースによって源経頼の日記『左経記』も見たら、長元4年(1031年)
11月1日条には〈・・・次いで右少将定良、日華門并びに宜陽殿の壇上を経、進み来たる間、上﨟達、
云はる、「今日の出居の将、本陣より昇るべきなり。還るべき由、示すべし」てへり。・・・〉、
長元4年(1031年)12月23日条にも〈・・・蔵人弁、云はく、「昨日、右少将定良を以て、斎院別当と
為す由、宣旨有り」と云々。・・・〉とあって、源定良は「右少将」になっていたΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン

となると、上記の長元2年(1029年)7月17日条の「左右近衛将」(左右近将)は左右近衛少将のこと
であり、同時点で源定良は「左少将」から右少将へと降格させられてた可能性が高いヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

冒頭の事件による降格なのか(@_@;) 被害者だけど過失があったのか(@_@;) 近衛少将という職掌
から重過失とされたのかも(@_@;) wikiにも立項されてない無名貴族の源定良、父は源経房(源高明
の子で、道長の猶子)らしいけど、既に治安3年(1023年)に亡くなっていたことも影響か(@_@;)