天気予報がハズレて謝っている予報士をこないだ視た( ̄◇ ̄;) 謝=誤ってばかりも困るけど(^_^;)

【読んだ本】

高橋秀樹『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館,2021)

春日詣に出立した藤原道長に藤原行成も同行したことは、道長の日記『御堂関白記』及び行成の日記
『権記』の寛弘4年(1007年)2月28日条から判るが、何故か天候に関する記述が異なってる(@_@;)

同条の天候に関する記述を倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術
文庫,2009)及び倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(下)』(講談社学術文庫,2012)50頁
から順に引く(@_@;)

    ・・・宇治に着いて、饗宴が有った。山城国司が儲けた。申剋に出発した。木津に
    着いた頃、雨が少々降った。笠を取るには及ばなかった。亥剋に佐保殿に到着した。
    饗宴が有った。・・・その後、また雨が小し降ったことは、初めのようであった。

    ・・・未剋に宇治殿に着した。饗宴が行なわれた。亥剋に佐保殿に着した。今日、
    朝の間は陰雨の気が有った。ところが雨は降らなかった。奈良坂の南で、時々、
    降った。・・・

『御堂関白記』は「木津の程、雨、小々下る(木津に着いた頃、雨が少々降った)」、『権記』は
「奈良坂の南、時々、灑ぐ(奈良坂の南で、時々、降った)」と記してるが、「木津」は「奈良坂」
から北へ数kmのところに位置するので、どちらかが不正確かと(ともに不正確な可能性も)(@_@;)

『御堂関白記』の「佐保殿に就く。・・・其の後、又、雨、小し下ること、初めのごとし(佐保殿に
到着した。・・・その後、また雨が小し降ったことは、初めのようであった)」を『権記』の「奈良
坂の南、時々、灑ぐ(奈良坂の南で、時々、降った)」と解しても、『御堂関白記』の「木津の程、
雨、小々下る(木津に着いた頃、雨が少々降った)」が『権記』の「今日、朝の間、陰雨の気有り。
然れども雨ふらず(今日、朝の間は陰雨の気が有った。ところが雨は降らなかった)」と矛盾(@_@;)

貴族の日記は古記録として第一義的な史料とされ、書かれている事実は歴史物語よりも正確で信憑性
が高いと考えられているけど、その記述を無批判に信用するのは危険だよねオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

さて、さて、さ~て!高橋秀樹は本書の「まえがき」で、従来(最新のものも含む)の「鎌倉幕府史
・武士研究の問題点」の一つを次のように指摘している(本書7~8頁)〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/そして、もっとも大きな問題が、史料の扱いである。後世の自己主張の塊
    のような系図史料の記述を真に受けて展開される武士論、鎌倉幕府がつくった
    編纂物である『吾妻鏡』の叙述をたどることを基本とする幕府政治史、いずれも
    本格的な史料批判が必要だろう。すでに『吾妻鏡』は史料批判がなされている
    という声があるかもしれない。しかし、史料批判とは、「北条氏による曲筆・改竄」
    と片づけることではない。『吾妻鏡』の史料批判とは、記事の一つ一つを原史料
    レベルに掘り下げ、情報源は何か、その情報は信用に足るものか、そこに文飾の形跡
    はないのかという点までを見極めることである。さらに公家日記に残されている
    関東申次や六波羅探題から朝廷に報告された幕府の公式見解や信頼できる情報と
    『吾妻鏡』の記事をつけ合わせることで、『吾妻鏡』の編者がつくろうとした
    事件のストーリーを排することができる。『吾妻鏡』本文も、北条本を底本とする
    『新訂増補国史大系』(吉川弘文館)に全面的に依拠するだけでなく、最善本である
    吉川本や、北条本に集成される前の古い形を残す零本[れいほん]、現存諸本の誤脱
    を補える仮名の南部本などの諸本に目を向けることも必要である。/・・・

ナルホド( ̄◇ ̄;) 高橋秀樹が本書で「本格的な史料批判」をどのように行なっているかを愉しみに
読んだウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪ そのメスさばきは非常に勉強になったので、後学のために
具体例をメモっておく_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

・本書56頁

    [正治元年=1199年10月]二十五日・二十七日、翌二十八日条ともに「晴れ」という
    天候記載があるから、事件後に作成された実検記など、何らかの記録史料を利用して
    いるとは考えられるが、文言には「虎口の難を逃るべからざるか」「断金の朋友なり」
    などの漢籍を踏まえた表現が用いられていたり、後三条天皇と藤原頼通をめぐる話が
    挿入されているなど、かなりの脚色・文飾が施されている。

・本書61頁

    [梶原]景時が武田有義を将軍に立てようと図って上洛を試みた話は、『保暦間記』
    のみならず、『吾妻鏡』正治二年正月二十八日条の伊沢信光の訴えにも登場する。
    この記事は天候を有しており、日記的な原史料にもとづく記事であるから、信光が
    このように有義を訴えたことは事実だろう。依拠している史料の原史料レベルでの
    信頼性からみると、山本[幸司]説が妥当だといえよう。

・本書64頁

    午の刻に広元が名越殿を出てからの記述は、時間をともなうもので、合戦記や事件記録
    にもとづいているとみられ、信憑性の高い記事である。それに比べて、[比企]能員と
    [源]頼家のやりとり、それを立ち聞きしたという政子の行動、時政の[天野]遠景・
    [新田]忠常に対する下命などの部分は、原史料を想定できない記事で、創作性が高い。

・本書79頁

    この日[=建保元(1213)年4月27日]の記事には天候記載があるから、事件
    [=和田合戦]の実検記などの記録にもとづく記述であると思われる。この
    [和田]義盛の言のとおり、一族の若者たちを抑えることができずに、かえって
    彼らの旗頭に擁立されてしまったというのが事実に近いのだろう。

・本書114頁

    [元仁元年(1224年)6月の義時死去後の26日に京都から鎌倉に戻った泰時と時房が
    執権に就任したとされるが]このあたりの『吾妻鏡』記事は、「軍営の御後見」の
    表現にみられるとおり、文飾を施した作文の痕跡があるから、記事内容そのものにも
    注意が必要である。

・本書117頁

    ここに取り上げた『吾妻鏡』の記事の大半に、記録特有の天候記載があり、何らかの
    記録を原史料としていることは明らかである。冷静沈着な泰時の描き方や文章表現など
    に多少の脚色は含まれていても、事件[=伊賀氏の乱]のおおまかな流れは事実だろう。

・本書167頁

    ここ[寛元4(1246)年7月28日条や宝治元(1247)年5月28日条]に記された当事者しか
    知り得ないはずの「密々」のことや、光村の心のなかにまで踏み込んでいる記述は、
    とても記録類にもとづく記事とは考えられない。一連の頼経と光村のやりとりは、
    その後に起きる宝治合戦に関する『吾妻鏡』の語り口、ストーリー展開に合わせて
    挿入された創作と考えざるを得ないだろう。

・本書171~172頁

    ここに掲出した日条[=宝治元(1247)年の4月~6月1日]のすべてに天候記載や
    時刻の記載がない。天候記載や時刻の記載は原史料が日記などの記録類である
    一つの証拠であるから、これらの記事が信頼できる原史料によっているのかという
    疑念が生じてくる。

・本書172~173頁(「『吾妻鏡』が描く宝治合戦」という見出しの節)

    ・・・/これまでに取り上げた『吾妻鏡』の宝治元年正月から六月二日までの
    関連記事すべてに天候記載がない。もちろん転写・伝来の過程で天候部分が
    省略された可能性も否定できないが、天候記載を必須とする日記ではない史料を
    原史料としているか、原史料そのものがないままに記事が作成された可能性すら
    ある。/『吾妻鏡』の記事が天候記載をともなうのは、六月三日条からである。
    合戦について記す八日までの大半に天候記載があるから、この部分は何らかの
    記録をベースに記事が作成されているとみていい。想定される原史料としては、
    奉行人の日記と、事件後に関係者の証言をもとに作成された実検記のような記録
    である。ただし、複数の場所での出来事が同時進行で書かれているから、複数の
    原史料が組み合わされていると考えなくてはならないだろう。/まず三日条は、
    二つの記事から構成されている。ひとつは時頼が如意輪観音を本尊とする秘法を
    行わせたことを記す。天候記載はこの記事の原史料にともなうもののようである。
    もう一つは泰村亭の南庭に立てられた落書を破却した泰村が、時頼に野心がない
    ことを弁明し、時頼は、泰村のもとに集まった郎従たちを帰すかどうかは泰村に
    任せると返信している記事である。記事の最後にある「およそ去月の夜中に時頼が
    泰村亭を出て屋敷にお帰りになって以来、泰村はこれを歎き、一日中心を悩ませ
    眠ることも食べることもできなかった」というコメントは、事件後に聴取された
    泰村妻の証言を元にした『吾妻鏡』編者の作文であるが、泰村と時頼とのやりとり
    自体は、時頼側関係者の証言で実検記に記録することはできるから、ある程度
    信頼してよさそうである。/・・・

・本書174頁

    [宝治元年(1247年)6月4日条は]・・・泰村の妹である毛利季光の妻が
    泰村亭に赴き、夫を味方させると語ったことを記す。最後の季光妻の記事には
    「子[ね]の刻」という具体的な時刻表記があるから、これも事件後に
    季光妻から事情聴取したさいの記録を含む実検記による記事だろう。

・本書175頁

    [宝治元年(1247年)6月5日の合戦当日について]合戦の様子は、戦後に
    武士たちが恩賞をもらうために自らの軍功を申請したさいの書類や聞き取りを
    まとめた報告書にもとづく記事である。ただし、合戦場面によく用いられる
    「矢石を発す」「身命を忘る」などの表現や、文章を飾るときに使われる
    不読助字「矣」があるから、編者の手がかなり加わっていそうである。

・本書176頁

    「巳[み]の刻」「午の刻」という時刻表記をともなっており、事件後に
    西阿[=毛利季光]妻などの関係者から事情を聞いた際の記録にもとづく
    とみられる。

・本書176頁

    光村と泰村のやりとりは原史料が特定できないから創作の可能性があるが、
    [三浦一族らが自害した]法華堂での様子は、原史料を特定できる。二日後
    の八日に法華堂に奉仕する僧侶が召し出された。この僧が仏前にいたところ、
    三浦一族が堂内に入ってきたので、慌てて天井裏に隠れ、そこから人々の
    会話を見聞きしていたという。八日条には、中原盛時が記した尋問記録が
    掲載されている。不読助字などの文飾が多少施されているが、泰村や光村の
    生の声を伝える記録として貴重なものである。

気になるのは、その史料に「天候記載があるから」ということを根拠に、その史料の記述を無批判に
信用している(ように見える)点である(@_@;) 冒頭で論じたように、『御堂関白記』と『権記』は
それぞれの寛弘4年(1007年)2月28日条に「天候記載がある」けれど、その「天候記載」そのものが
両書は異なっており、どちらの記述を信用すべきなのか(@_@;) そして、本書が慈光寺本『承久記』
にも無批判に高い史料的価値を認めている(ように思える)点も気になることは前に記した(@_@;)

・高橋秀樹『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館,2021)「プロローグ 北条氏と三浦氏」
 「多くの日本人の歴史知識は、小学校教科書と中学校教科書で形作られている」エッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-06-09

・高橋秀樹『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館,2021)全体

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-10-01