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221001読んだ本

大人になり大河を視なくなったため幼少期の刷り込みで三浦平六義村が出てくると藤岡弘の顔が(^_^;)
藤岡弘の顔が浮かぶと、頭の中で流れ始める、♪せがた三四郎、せがた三四郎、セガサターン、シロ!

【読んだ本】

高橋秀樹『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館,2021)

    プロローグ 北条氏と三浦氏

     三浦氏と北条氏のイメージ/歴史教育のなかの北条氏と三浦氏/
     鎌倉幕府史・武士研究の問題点/北条氏研究・三浦史研究の現在/
     本書のねらい/

    一 頼朝時代の北条氏と三浦氏

     1 内乱前後・南関東の武士団と国衙

      伊豆国/相模国/武蔵国/安房国/下総国/上総国/南関東国衙ネットワークの形成/

     2 頼朝と北条氏

      頼朝と政子の結婚/弟全成と時政娘との結婚/挙兵後の頼朝と北条時政/義時の立場/

     3 頼朝と三浦一族

      義明・義忠の討ち死に/宿老三浦介義澄/和田義盛の侍別当補任と武芸/
      頼朝側近佐原義連/頼朝時代の北条氏と三浦氏/

    二 執権政治のはじまりと和田合戦

     1 梶原景時排斥をめぐる東国武士団の動向

      一三人の合議制/梶原景時排斥事件/景時排斥事件の評価/

     2 比企氏の乱と将軍交替

      阿野全成謀反事件/『吾妻鏡』が描く比企能員殺害事件/
      『愚管抄』が記す比企能員殺害事件/鎌倉殿の交替/畠山氏討滅と時政の失脚/

     3 和田合戦と東国武士団

      和田義盛の上総国司所望/泉親平謀反事件/和田合戦/

    三 実朝暗殺事件と承久の乱

     1 実朝暗殺事件の実像

      実朝政権下の義時と義村/実朝暗殺事件/暗殺に黒幕はいたのか/

     2 承久の乱と東国武士団

      実朝の後継者問題/承久の乱/承久の乱の戦後処理/

     3 義時の死と伊賀氏の乱

      承久の乱後の幕府/義時の死/伊賀氏の乱/

    四 頼経時代の義村と泰時

     1 幕府新体制の成立

      政子の死/三寅の元服/北条家嫡子時氏の死/

     2 身分秩序の再編と北条氏・三浦氏

      鎌倉殿の身分/鎌倉御家人の身分/身分秩序のなかの北条氏と三浦氏/

     3 義村・泰時の死

      頼経の上洛/義村・時房の死/泰時時代の終焉/

    五 寛元の政変から宝治合戦へ

     1 寛元の政変

      北条経時の時代/寛元の政変/頼経と三浦光村/

     2 宝治合戦

      公家日記からみた宝治合戦/『吾妻鏡』が語る宝治合戦までの動き/
      『吾妻鏡』が描く宝治合戦/

     3 宝治合戦と東国武士

      宝治合戦の三浦方/佐原系三浦氏の動き/

    エピローグ

     北条時頼の時代/執権と得宗/蒙古襲来と霜月騒動/

    参考文献

    略年表

読了(^o^)丿 「対決の東国史」というシリーズ企画にはそぐわないが、だからこそ面白かった(^_^;)
「まえがき」で「相模国最大の豪族にして、北条氏の唯一のライバルだったが、結局は北条氏によって
滅ぼされた一族というのが三浦氏に対する通説的なイメージだろう。」とし、もう一方の「北条氏は、
源頼朝の時代は強い独裁政治の前に屈していたが、頼朝の死後、将軍の力をおさえて権勢を得て、有力
御家人を次々と滅ぼしていくイメージである。」から、〈北条氏の「権謀」と三浦氏の「陰謀」との
対立の図式は今なお根強い。〉が(本書2頁)、「本書が目指すところは、一言でいえば、古い北条・
三浦関係史の打破である。古い関係史とは、対立・対決を主軸とする捉え方によって描かれた歴史像
である。さらには北条氏による他氏排斥という鎌倉幕府の枠のなかで捉えてきた関係史を見直すこと
でもある。」(本書9~10頁)というわけで、従来の理解を引っ繰り返しちゃうんだから面白い(^_^;)

高橋秀樹によると、12世紀後半には三浦氏など南関東で各国衙に関わっていたような有力武士は国を
超えて婚姻関係を結んで南関東国衙ネットワークを形成したが(本書24頁)、ソレに入れぬ北条氏の
意識は東の関東ではなく京都を含む西へ向いており(本書25頁)、頼朝の挙兵前は三浦氏と北条氏は
疎遠で交流の機会はほとんど無かったらしく、その仲を取り持ったのは頼朝とする(本書49頁)(^^)
北条時政幽閉後は「実朝を将軍に擁した母政子と弟義時が主導し、[大江]広元たちが支える幕府の
新体制は、政子と三浦義村との連携で実現された。その後四〇年にわたって続く北条氏と三浦氏との
協調関係が、政子のもとで成立したのである。」(本書71頁)とし、藤原頼経とその側近が執権就任
間もない時頼を除こうとした寛元の政変によっても北条氏と三浦氏との関係は壊れることはなかった
とする(本書165頁)(^^) その間、北条氏と同様に親子(義村と泰村)や兄弟(泰村と光村)で同時
に評定衆に在任するなど、三浦氏は御家人の中でも特別な家だった由(本書144頁、本書159頁)(^^)
だが、「まえがき」に「・・・ちょっとした行き違いから生じた対決が決定的な最期につながること
の方がむしろ多いだろう・・・」と記していた通り(本書10頁)、本書178頁は次のように結論(^^)

    ・・・/こうして『吾妻鏡』の記事を分析すると、安達氏が主導して三浦氏を討とうと
    したという話は虚構であり、時頼と泰村との間では、最後まで和平交渉が重ねられて
    いたが、和平を望む泰村の意に反して、三浦一族内の好戦派勢力に引きずられる形で
    挙兵に至ったというのが実像であろう。/北条義時・三浦義村以来、数十年にわたった
    北条氏と三浦氏の盟友関係はここに終わった。しかし、その結果は、時頼・泰村という
    両家の当主が望んだことではなかった。北条氏と三浦氏の対決は、数十年の歴史のなかで、
    宝治元年六月五日の一日だけ、しかも、たった六時間に過ぎなかった。/

なお、泰村の代で断絶したかに見える「三浦介の家」は宝治合戦で北条方について生き延びた佐原系
三浦氏が継承して、「北条氏と三浦氏との一体的な関係は、宝治合戦をへてもなお続くのである。」
(本書183頁)とする(^^) ただ、宝治合戦後も佐原系の家は有力御家人だけど侍受領あるいは衛府の
尉の侍の家で、泰村時代の諸大夫としての三浦家は継承されず(本書189頁) 時頼と佐原氏の関係も
主従関係に近くなり(本書191頁)、佐原系三浦氏の一部は安達氏の家人に(本書196-197頁)(^_^;)

この「諸大夫」等は、本書が「まえがき」で指摘する「鎌倉幕府史・武士研究の問題点」の一つに、
従来の武士研究は武士の在京活動に注目しつつも在地領主、地域の支配者と捉える意識が強いとして
(本書6頁)、次のような指摘をしている(本書7頁)(^^)

    ・・・/鎌倉幕府の長である将軍と御家人の関係も固定的な封建的主従関係として
    捉えられてきた。しかし、将軍である鎌倉殿の地位は、この時代の身分体系のなかで
    諸大夫から公達、さらに王胤へと上昇し、御家人たちも、無官の侍、衛府の尉クラス
    の有官の侍、五位の侍受領、諸大夫などに身分分化していく。鎌倉殿も御家人も
    身分が変動しているわけであるから、その関係にも何らかの変化があったと考えた
    方がいい。平安時代に形成され、貴族社会のみならず、武家社会をも含みこんでいる
    この時代の身分体系や社会の枠組みを前提としなくてはならないだろう。/・・・

この「身分体系」における三浦氏と北条氏の「地位」に着目し、その変化も本書はトレースしてて、
例えば、「二階堂氏や伊賀氏など京下りの実務官人だった家と源氏一門を除く東国御家人の家で、
侍身分を脱して諸大夫身分を獲得した家は北条氏と三浦氏のみである。御家人の任官には鎌倉殿の
推挙や許可が必要であったから、三浦氏が諸大夫の家になることを、頼経も、両執権北条時房・泰時
も認めていたことになる。これも北条氏と三浦氏が一体となっていたことの証拠であろう。」(本書
140頁)と(^^) こういったアプローチは、「まえがき」で「東国の鎌倉を中心に展開された北条氏と
三浦氏の関係は、東国だけで完結するものではなく、天皇・上皇(「治天の君」)を中心に国家・
社会が形成され、武士や武士たちがつくった関東の権力体(いわゆる鎌倉幕府)もその国家・社会を
形成する一つの要素(権門)として秩序のなかに組み込まれていたという見方(権門体制論)から
すれば、朝廷との関係、地方においても国衙との関係が重要になってくる。」(本書10頁)と述べら
れている通り、権門体制論に立っているから(^^) その結果、例えば、「公武関係に関わる件について
決定権を持っているのが、北条泰時ではなく、三浦義村であると[京都の貴族達から]みられていた
のである。」(本書123頁)といったように、「・・・従来の相模国の大豪族・鎌倉幕府の有力御家人
としての三浦氏像は塗り替えられ、朝廷と強い結びつきをもち、全国規模で縦横に活動する新しい
三浦氏像が構築された・・・」と「まえがき」(本書9頁)(^^) ただ、この「まえがき」で「北条氏
研究・三浦史研究の現在」として近年の(有名な)研究者の著作等をずらっと挙げて、「・・・先に
指摘した鎌倉幕府史研究・武士研究の問題点が克服されているのかといえば、そうはなっていないの
が現状である。」と手厳しい(本書8~9頁)ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 加えて、「三浦氏研究は、二〇世紀末の
『新横須賀市史』の編纂事業や三浦一族研究会の研究活動によって、飛躍的に進展した。」けれど、
「二冊の拙著(高橋秀樹 [『三浦一族の中世』吉川弘文館]二〇一五・[『三浦一族の研究』同]
二〇一六)刊行後も、三浦氏や和田氏に関する論考が次々発表されているが、新しい研究成果に目配り
のないものや史料解釈に難があるものが散見される。」(本書9頁)と著者はプンプン((;゚Д゚)ヒィィィ!

「史料解釈に難」とは、「まえがき」で「鎌倉幕府史・武士研究の問題点」の一つとして、「・・・
もっとも大きな問題が、史料の扱いである。」と指摘して「・・・本格的な史料批判が必要だろう。」
と述べている点(本書7~8頁)に関連しそうだけど、この問題は後日に改めて取り上げたい(^_^;)

「史料批判」の問題もそうだけど、北条氏と三浦氏の関係を対立・闘争モデルで把握してきた従来の
研究の背後にあるパラダイムの問題点も、「まえがき」の「鎌倉幕府史・武士研究の問題点」で指摘
されている(本書6頁)(^^)

    ・・・/研究者の間において、鎌倉幕府の歴史は、源頼朝の独裁的な権力が成立して
    いく過程、頼朝の死後は、他の御家人や将軍を押さえ込んでいく北条氏の権力伸長の
    歴史として捉えられてきた。こうした捉え方の背景には、権力は対決・屈服の結果
    として勝ち取るもので、権力体はさらに大きな力の獲得を目指していくものだという
    先入観がある。これは幕府と朝廷との関係にもいえることで、鎌倉時代から室町時代
    を幕府による朝廷権限収奪の歴史として捉えることがかつては主流だった。しかし、
    丹念にみていくと、そんなに単純なものではないことがわかってくる。/・・・

北条氏と三浦氏の関係というテーマを超えて、歴史学研究のあり方をも考えさせられた本書だけど、
それ以外にも興味深い指摘があったので拾っておく(^o^)丿 北条時政の娘(後の阿波局)が源頼朝の
弟の全成[ぜんじょう]と結婚したのは、頼朝と政子の結婚よりも時期が早い可能性があり、全成と
時政の娘の婚姻があったから頼朝と政子も結ばれたっぽく、頼朝と政子、頼朝と全成の各エピソード
の一部は創作の可能性が高くなること(本書28~30頁)、実朝暗殺事件の三浦義村黒幕説については
北条氏と三浦氏は対立関係にあるという「誤解」や義村は実朝の「乳母夫」(=「乳母の夫ではなく、
男性の養育責任者を指す」)なのに公暁の「乳母夫」とする『吾妻鏡』建永元年(1206年)10月20日
条=「史料の誤読」の2点を前提としてて成り立たないこと(本書92~93頁)、慈光寺本『承久記』
によると後鳥羽上皇が北条義時追討を諮った公卿会議の参加者に時政の娘を妻とする中納言藤原実宣
や参議藤原国通が入ってない一方で鎌倉殿三寅の父藤原道家が入っていることからも承久の乱は幕府
そのものの存在を否定するための挙兵ではなく狙いは義時の排除にあったとし(本書100頁)、後鳥羽
上皇の義時追討の命令が下された対象として慈光寺本『承久記』に記載されている人々の中には北条
時房の名前もあることからも後鳥羽上皇の挙兵の目的は幕府や北条氏の打倒ではなく義時一人の排除
にあったとすること(本書103頁)_φ( ̄^ ̄ )メモメモ その他にも勉強になった点は多かったよ(⌒~⌒)

たしかに、本書を読むと北条氏と三浦氏はずっと協調関係にあり一体化していたのは解るんだけど、
だからこそ、宝治合戦に至ってしまったのが謎として残る(^_^;) 『吾妻鏡』の編者も実は解らなくて
結果論的な予兆・遠因エピソード(藤原頼経に同情する「光村の心のなか」)を創作したのかなぁと
思っちゃったほど(^_^;)「三浦一族内の好戦派勢力に引きずられ」たとし、和田合戦も「一族の若者
たちを抑えることができずに、かえって彼らの旗頭に擁立されてしまった」(本書79頁)とされて、
戦前・戦中の日本か(^_^;) 和田義盛も三浦泰村も一族を統制できない当主だったというのかな(^_^;)
あと、本書の「本格的な史料批判」もチト気になる(^_^;) 『承久記』の慈光寺本に対する史料的評価
が上記の如くメチャ高いんだけど、これも「本格的な史料批判」を経た上でのものなんだよね(^_^;)

誤植と思しき点を指摘すると、本書170頁の「[宝治合戦直前の宝治元年(1247年)5月]二十一日、
鶴岡八幡宮の鳥居前に札が立てられていた。そこには、三浦義村はおごり高ぶり、厳命に背いたので、
誅伐を加えると決まった。よくよく謹慎するように、と書かれていた。」の「義村」とは泰村では?
本書174頁の「六月五日が[宝治]合戦当日である。・・・最初の記事は、①時頼が被官の万年馬入道
を泰村の元に遣わし、郎従らの騒動を鎮めるように命じ、次に入道盛阿に書状をもたせ、泰時を討つ
意志がないこと、泰村も異心をもたないで欲しいと伝えた。」の「泰時」とは泰村では?本書191頁の
「②重時・長時所領を継承する義政の家」の「義政」とは(自信は無いけど)義宗じゃないか(^_^;)

・高橋秀樹『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館,2021)「プロローグ 北条氏と三浦氏」
 「多くの日本人の歴史知識は、小学校教科書と中学校教科書で形作られている」エッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-06-09

・植田真平『対決の東国史4 鎌倉公方と関東管領』(吉川弘文館,2022)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-02-27

・田中大喜『対決の東国史3 足利氏と新田氏』(吉川弘文館,2021)

「プロローグ 足利氏と新田氏の格差」「一 格差のはじまり」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-01

「二 広がる格差」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-24

「三 連携から対決へ」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-06-07

「四 足利氏の時代へ」「エピローグ 対決の果てに」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-07-11

・日本中世史の研究者が実際に数えて確認しないのは実証主義的な研究姿勢とは思えぬ( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-06-27

[追記221130]

・『御堂関白記』と『権記』の天候記載の食い違いと高橋秀樹『北条氏と三浦氏』の史料批判(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-09-21
タグ:列伝 歴史
コメント(6) 
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コメント 6

ナベちはる

「♪せがた三四郎、せがた三四郎、セガサターン、シロ!」…メロディーが頭をよぎりました(^^;)
by ナベちはる (2022-10-02 01:03) 

middrinn

湯川専務と並ぶ有名人ですね(^_^;) 藤岡弘は
仮面ライダー以来、定期的にブレイク(^_^;)
by middrinn (2022-10-02 05:45) 

df233285

鎌倉北条氏と三浦氏との関係は。たとえて言うなら
遂に、片方だけNATOに加盟するまでに、関係の悪化
した、ロシアとウクライナの如くのようですね。
by df233285 (2022-10-02 08:50) 

middrinn

長年の兄弟国が一転・・・ということだと思いますが、
三浦義村が幕府内での対朝廷の交渉役を担っていたなど
三浦氏の幕府内での地位はウクライナ以上かと(^_^;)
by middrinn (2022-10-02 09:48) 

tai-yama

藤岡弘、さんは"、"をつけないと(笑)。
時政の、頼朝と政子の結婚は反対で暗殺を試みたとかの説
も変わるのかな?
by tai-yama (2022-10-02 23:42) 

middrinn

たしかに、先に全成と娘を結婚させてたなら、
その話もチトおかしくなりますよね(^_^;)
by middrinn (2022-10-03 06:06) 

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