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220225読んだ本

元ネタが存在することが判っちゃうと、がっかりするものなのかな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

奥富敬之『吾妻鏡の謎』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2009)

謡曲『鉢の木』で知られる話など「・・・出家後の時頼が旅の僧に姿を変えておしのびで諸国を回り、
不当に困窮している人々を救う、という内容のもの・・・」を総称して、北条時頼の「廻国伝説」と
高橋慎一朗(日本歴史学会編集)『北条時頼』(吉川弘文館人物叢書,2013新装版)224頁に(⌒~⌒)

奥富敬之は『増鏡』に載っている北条時頼廻国伝説を紹介した後、「摂津国の尼公」という見出しで
『太平記』の話を紹介していた(本書183頁)(@_@;)

    /これに尾鰭が付いたのが、『太平記』巻三十五「北野通夜物語附青砥左衛門事」
    である。

      最明寺時頼禅門、密に貌[かたち]を窶[やつ]して、六十余州を
      修行し給ふに、或時摂津国難波浦に行到りぬ。

    そこで尼公[にこう]一人の茅屋[ぼうおく]に一宿し、その尼公が関東奉公の惣領に
    重代相伝の所領を押領されたと知って、傍にあった位牌の裏に、

      難波潟 塩干[しおひ]に遠き月影の
       また元の江にすまざられやは

    と書いて尼公に渡した。/やがて鎌倉に帰った時頼は、この位牌を召し出し、
    押領されていた所帯を尼公に取り返してやったというのである。/
      
これは『古今著聞集』に載っている源頼朝の説話の翻案じゃないのかな(@_@;) 西尾光一&小林保治
(校注)『新潮日本古典集成 古今著聞集 上』(新潮社,1983)の「前右大将頼朝、自筆の和歌にて
下文を賜る事」によると、源頼朝が上洛中に天王寺を参詣し別当の定恵(後白河院皇子)と対面後の
退出時に、弱々しい様子の「尼」が源頼朝に近づいて、「和泉の国に相伝の所領の候ふを、人に押し
取られて候ふ」、訴訟しておりますが、身体が弱いために思うように参りません云々と述べて、文書
を差し出し、それに目を通した頼朝は尼に当人か確認すると、供の三浦義連に「硯を捜してまいれ」
と命じ、「いづみなる信太の杜のあまさぎはもとの古枝に立ちかへるべし」と詠んで、持っていた扇
に歌を書き、義連に判(花押)を加えさせて尼に渡し、その後、問題は解決したという説話(@_@;)
「天王寺にまゐりけるに、難波の浦に泊りて、詠み侍りける」という詞書の肥後の『新古今和歌集』
入集歌もあり、田中裕&赤瀬信吾(校注)『新日本古典文学大系11 新古今和歌集』(岩波書店,1992)
巻末の「地名索引」の「天王寺」の項に「聖徳太子の創建という四天王寺の通称.難波の浦に面して
いた.」とあるように「難波浦」に面した西門が極楽浄土の東門とされ広く信仰された(四)天王寺
の所在地も「摂津国」なので、「摂津国難波浦」で「尼」から「相伝の所領を押領」されている話を
聞いて詠んだ「和歌」を書き付けることによって問題解決と、二つの話は共通点が多いかと(@_@;)
なお、上宇都ゆりほ『源平の武将歌人 コレクション日本歌人選 047』(笠間書院,2012)はこの歌を
採り上げて、「・・・この話には極めて重要な要素が語られている。」として、本郷和人の説という
三つの点を指摘しているけど、この拙稿には関係が無いので紹介しない〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
源頼朝は歌人でもあったけど、北条時頼については前掲『北条時頼』234頁~235頁に次の記述(^_^;)

    ・・・/そのいっぽうで時頼は、和歌にはほとんど興味を示していない。もっとも、
    幕府(将軍頼嗣)主催の和歌会に参加したり(『吾妻鏡』宝治二年五月五日条)、
    将軍宗尊親王を自邸に迎えたおりに歌会を催してもてなしたりしていることから
    (『吾妻鏡』弘長元年七月十二日条)、和歌を作ったことは確かであるが、歌は一首
    も残されていない。祖父の泰時が和歌を嗜んだこととは、まったく対照的である。/
    『尊卑分脈』のいくつかある写本のうちの一つに、時頼に「歌人、賦和歌百首」と
    注をつけているものがある。しかし、他の写本にはそれは一切見えず、北条一族
    きっての歌人である政村について「歌人」の注記がないなど、『尊卑分脈』における
    北条氏の歌人注記には不審な点がある。よって、まったく歌が残されていない時頼を、
    著名な歌人としてみなすことは難しい。/時頼が和歌を好まなかった理由について
    小川剛生氏は、執権が将軍の家政機関の長である以上、将軍家歌壇が活発に活動して
    いれば、あえてこれと競合する形で和歌行事を催す必要は認めなかったのであろう、
    と推測している(『武士はなぜ歌を詠むのか』)。/・・・くわえて、時頼は宗尊親王
    を中心とする文化的ネットワークからは、慎重に距離をおこうとしたとも考えられる。
    /・・・

「まったく歌が残されていない時頼」と評しているし、高橋慎一朗も『太平記』の北条時頼廻国伝説
を史実とは考えていないわけだが(同書226頁で石井進の見解を支持して「一つ一つの伝説は事実とは
認めがたく」云々と総評する)、この伝説が何を材料にして作られたかも論じてほしかったね(^_^;)
まだ『太平記』の注釈書は調べてないけど、以上の諸書はどれも、『古今著聞集』の源頼朝の説話と
『太平記』の北条時頼の伝説が類似していることを指摘していなかった〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
タグ:歴史 説話 和歌
コメント(6) 
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コメント 6

df233285

時頼37歳で亡くなったんじゃ、いい和歌作る円熟の間も
無かったんでしょうね。兄貴病死して執権になってからは、
権力闘争に明け暮れ、それが終わると歌会主催しにくい
出家の身。ついで、しばらくして病死の人生だったらしい
ですから。和歌で名を残すのにも、長生きはしたいですね。
by df233285 (2022-02-25 22:29) 

ナベちはる

元ネタが判ると、嬉しいものもありますがそれと同じように悲しいものもありそうです…
by ナベちはる (2022-02-26 02:02) 

middrinn

新古今時代を代表する歌人の一人である九条良経は享年38ですが、
長さん様、『新古今和歌集』入集歌数は第3位ですし、俊恵法師も
出家の身ですが、歌会を何度も催し歌林苑という一大勢力(^_^;)
by middrinn (2022-02-26 07:05) 

middrinn

意外なものが元ネタだったりすると知ると嬉しいですが、
ナベちはる様、つまらないものだったりするとね(^_^;)
by middrinn (2022-02-26 07:12) 

tai-yama

元ネタがあったことはわか(和歌)んなかったのでは(笑)。
歌会ばかり開催する将軍を見て、「こうなりたくない」と
思って和歌が嫌いになったのかも。
by tai-yama (2022-02-26 18:46) 

middrinn

『古今著聞集』の当該説話には「摂津国」ではなく
「和泉国」が出てくることと、天王寺が「摂津国」
にあることを知らなかったのではないかと(^_^;)
by middrinn (2022-02-26 19:21) 

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